

東アフリカで今、エレクトロニックミュージックのブームが巻き起こっている。このブームの中心となっているのは、ウガンダの首都カンパラを拠点とする小規模なアーティストコレクティブだ。Aaron Coultateがウガンダに行き、彼らのストーリーを綴る。
2013年当時、Tilapiaは既にカンパラで一番の夜遊びスポットのひとつとして知られ、アフリカ全土から集まった人々を魅了していた。赤い壁にはソビエトの政治ポスターが貼られている。これは店舗の最初のオーナーがTimes紙の駐在員としてモスクワにいた頃に収集したものだという。Elmiが初めてTilapiaに行ったその夜、Boutiq Electroniqというパーティーが開催されていた。この経験が彼女に大きな影響を与えることになる。「お店に入った瞬間、ここには色んな可能性があると気づいた。カンパラのあちこちのエリアから、そしてアフリカ中から、世界中から、人が集まっていた。そして皆を結びつけているのが『他に行き場がない』という気持ちだった」
このアウトサイダー的な精神は、Boutiq Electroniqのクラウドにも、そして音楽自体にも見受けられる。他のカンパラ市内のクラブでは、商業的なダンスホールや、レゲエ、ヒップホップが流れているが、Boutiq Electroniqでは他のクラブでは殆どプレイされないクドゥーロ、タラシーニャ、バラニ、クペデカレ、スークースといったアフリカ各地の音楽と、ハウス、テクノ、グライムなど西洋のエレクトロニックミュージックがプレイされている。こうした話が広がるうちに、探求心旺盛な音楽好き達がパーティーに集まるようになった。ElmiもBoutiq Electroniqの包括的な雰囲気に触れることでDJを志すようになり、今ではHibotepという名義でプレイしている(姉妹でバックトゥバックでプレイすることもある)。「Boutiqには他では感じられない自由がある」と彼女は言う。
現在Nyage Nyageの中核になっているDJとプロデューサー達はBoutiq Electroniqを通して出会った。レコーディングスタジオ、レーベル、そして年一度のフェスティバルを行うコレクティブであるNyege Nyegeは、成長する東アフリカのエレクトロニックミュージックシーンの重要なプラットフォームとして、そして世界との文化的な対話を後押しする窓口として機能している。

Boutiq ElectroniqとNyege Nyegeをスタートしたのは2人の人物だ。一人はギリシャ系アルメニア人で学者のArlen Dilsizian、もう一人はごわごわで無精な顎髭を蓄えたベルギー人のDerek Debruである。Dilsizianはカンパラに住んで7年、Debruはインド、アメリカ、日本、東南アジアを放浪した末にウガンダにたどり着いた。2人が意気投合したあと、Nilotica Drum Ensembleというウガンダのパーカッション一座ともつながりを持つことになった。初期のBoutiq Electroniqのパーティーでは、カンパラ中からDJとパーカッショニスト、MCが集まり、Dilsizianも自身の持つ膨大なアフリカンミュージックのコレクションから選曲したDJをし、全員でアンサンブルとしてライブをやっていた。Debruはというと、「Waragi、つまり、みんなを盛り上げる役」をやっていたという。
2013年から、Nyege Nyegeは急速に成長していった。2015年には、カンパラ市内にレコーディングスタジオ”Boutiq Studio”をオープンし、カンパラのローカルやウガンダ国内、さらには国外のアーティストとのコラボレーションも行った。同年、ナイル川の源流があるジンジャという街で放棄されたままのリゾート施設を使い、初のフェスティバルを開催。さらに2016年後半には、レーベルNyege Nyege Tapesをスタートした。同レーベルではウガンダ北部のエレクトロ・アチョリから始まり、ダルエスサラームのストリート発のシンゲリに至るまで、刺激的な東アフリカの音楽を主体にリリースしている。
“Nyege Nyege”とは、『抗えないほど衝動的に、動いたり、震えたり、ダンスしたくなる感覚』を意味するルガンダ語の言葉にちなんで付けられた(ちなみにスワヒリ語では『欲情、欲情』といった意味になる)。コレクティブの本拠地はブンガで、カンパラの郊外からアフリカ最大の湖であるヴィクトリア湖の湖畔に向かって対角線状に通っている幹線道路グガバ・ロードの近くの地域である。ブンガは多くのアフリカ人達が集まり、生き生きとしたコスモポリタンな雰囲気にあふれた場所だ。パーティースポットにも困らない程充実していて、Dilsizian曰く”カンパラで一番古くて一番きわどい雰囲気のクラブ”であるCapital Pubではダンスホールやポップスが流れ、大勢のクラウドで混み合っている。Capitalの二軒先には、こじんまりとして賑やかなコンゴ人のバーVision Congoがあり、そこではDJ達がコンゴの音楽であるスークースやリンガラ、ンドンボロなどをプレイしている。La Referenceはもう一軒のコンゴ系ヴェニューで、週末にはライブバンドによるスークースの演奏を(大音量で)聴くことができる。Deucesというアフターアワー向けスポットも近くにあり、ここも良いアフターアワー向けスポットの常として、クローズの時間が近づく程にだらだらとした雰囲気になってくる場所だ。
Boutiq Electroniqを開催しているヴェニューTilapiaは、同店の2代目オーナーだった変わり者のイギリス人男性がウガンダを離れたあと、ミュージシャン達や兼業プロモーターなど、多くの人々によってゆるやかに共同保有される場所になった。ざっくりとした形態ではあるものの、雰囲気は安全だ。入り口にもバウンサーはいなく、近くのカバラガラ地区の性風俗店で働く人々も仕事とは関係なく来店するが、もちろんいざこざとは無縁だ。客はバーで自分で飲み物を準備し、カゴに飲み物代を入れていく仕組みになっていて、このシステムがうまく回っていることもあれば、そうでない時もあるようだ。
このやり方で、Boutiq Electroniqは大いに繁盛した。人気に伴って、カンパラ市内にある廃工場や郊外のバー、空き地といった、クラブ向けのスペースではない場所でもパーティーを開催するようになった。Tilapiaの隣にはBar 2-7という道沿いの場所があり、そこでもBoutiqのクルーが夜明けまでブロックパーティーをやっていた。「ここはいつでもフリーだよ」とDilsizianが言う。「フリーっていうのは金額もそうだけど、雰囲気もフリーなんだ。やりたいことは何でもやっていい。もし君がハイになってたり、どうかしてしまっていたとしても、みんな見なかったことにしてくれるよ」。
この自由さというのは、性的嗜好の自由に対しても発揮された。Boutiqは初期の頃からLGBTQの層にも人気を博していて、植民地時代の法律の名残で未だに同性愛が違法とされているこの国に、LGBTQを歓迎する文化的土壌を作りだした。2014年に審議された、より厳格な反同性愛法の成立は国際的な非難によって頓挫したものの、最近では8月に、今回二年目を迎える予定だったプライド(LGBTの祭典)の開催がウガンダ政府によって阻止されている。
ジェンダー間の平等についての問題も、同様に活発になっている。ウガンダは国連の2016年ジェンダー不平等指数ランキングで179カ国中163位だった。「ウガンダの社会は社会的な面で非常に保守的で、むしろ退行している部分すらある」とNyege Nyegeの中心アーティストでDJのKampireことKampire Bahanaは語る。「私は音楽を目的にしてクラビングし、DJをしているのに、ギャラをもらうのには苦労している。去年のプライドパーティーには警察が入ってきて、自分たちのコミュニティの仲間を威嚇し、逮捕した。安心して過ごせる場所がどれだけ貴重で必要なものなのか気付いた」。Bahanaは、ヨハネスブルグで行われている女性DJと女性バウンサーだけのパーティー”Pussy Parties”のウガンダ版の開催を企画している。「『Pussy Parties』という名前に対する人々の反応を見るだけでも、こういうイベントをやらなきゃいけない理由がわかると思う」と彼女は言った。

Nyege Nyegeはほぼ、識者からの注目とは関係ないところで運営されてきた。「ウガンダでは、音楽というのはあからさまに政治的に見られることなく、変化を引き起こすための方法」だとBahanaは言う。ウガンダの大統領であるYoweri Museveniは31年間権力の座にあり、すでに73歳だが辞める気配もない。彼の政党の政治家達は、同国の憲法にある、75歳以上の人物が大統領職に就くことを禁じる条項を撤廃しようとしている。Museveni大統領の取り巻き達が9月に憲法改正を図った際には、議会で茶番劇のような乱闘が巻き起こった。
Nyege Nyegeはまた、自分達がウガンダの宗教的右翼団体からターゲットにされていることにも気づいている。この団体は以前から、国内のLGBTQ団体への反発を煽ることに関わっている(ウガンダでは長年にわたり、同国内で布教を行っているアメリカの宗教団体が同性愛者への嫌悪を煽動してきた)。昨年のNyege Nyege Festivalが開催された後に団体が発行したパンフレットでは、フェスティバルについて『非常に儀式めいたものであり、二日目には乱行パーティーへと陥っていた』、『このイベントが国際的なゲイコミュニティによってオーガナイズされ、大きく資金援助されているという事実は決して無視するべきではない』と書かれていた。
ウガンダは若い人々の国だ。若年人口の多さは世界第2位で、平均年齢は15.9歳である(ウガンダより若年が多い国はニジェールだけだ)。また多様性のある国でもあり、東アフリカ中から人々を引き寄せている。難民に対しても、土地、教育、健康保険、仕事を与えるなど、地球上で最も思いやりのある難民政策を掲げている。(国連難民高等弁務官事務所が「アフリカ最大の人道危機」と呼んでいる、南スーダンでの暴力的な混乱を避け、100万人以上の人々がウガンダに亡命したため、この政策は大きな負担となっている。)
この若さ溢れる国には新世代のアーティストも多数いて、特にカンパラに住むアーティストは、今では手に入りやすくなったスマートフォンやインターネット、ラップトップなどのテクノロジーを進んで取り入れているが、インターネット回線は未だに料金が高くて遅い(その一方、ウガンダにとって、より広くてお金持ちのご近所さんのような存在の国であるケニアでは、世界一のモバイルインターネット速度を誇っている)。「この3年間での成長はとんでもないものだった。皆がよりつながり、情報、ソフトウェア、様々な配信方式のものにアクセスできるようになった」とBahanaは語る。
Youth-Connect Ugandaという組織を運営するWabwire Joseph Ianの話では、ウガンダでは新しいテクノロジーへのアクセスに後押しされる形で「クリエイティブなアーティストのエコシステムが構築されつつある」という。様々な領域で創作をしている若いアーティスト達が、テクノロジーを通して初めて、自分の地元以外にいる客層につながることができるようになったからだ。「今必要なのは、クリエイティブなアーティストが自分のアイデアを表明し、制作し、テストし、学び、そして学び直すための場だ。そういう環境は、まだウガンダではレアなんだよ」と彼は言った。



東アフリカのDJ達の多くと同様、Bahanaは独学で、ラップトップのVirtual DJをコントローラーで操作している。彼女はウガンダの中でも今最も注目のDJだ。国外でも活躍中で、ブルキナファソやコンゴ民主共和国でもフェスティバルに出演している。BahanaとNyege Nyegeとの出会いは、Boutiq ElectroniqがTilapiaからHollywoodというヴェニューに移って開催された時だった。Hollywoodは、Rasta Binyamというエリトリア人のプロモーターが運営しているダイブバー兼ホテルだ。退役軍人で脚に6つの銃痕を持つBinyamは、パーティーに来た人々にホテル自体も宿泊部屋も自由に使わせているため、Tilapiaでの何でもありな雰囲気をしっかり受け継いでいる。Bahanaによる低音がヘビーなアフリカンミュージックのDJセットは、彼女が幼い頃育ったザンビアのコッパーベルト(銅の第鉱脈)にある鉱山の街と、そこで聴いていたコンゴの音楽や、素晴らしいアフリカンポップスからインスパイアされたもので、瞬く間に盛り上がった。
「普通と異なる事はやってはいけない、というのがウガンダでの主要な考え方で、ほとんど国民性ともいえるものかもしれない」とBahasaは言う。「だからこそ、新しい種類の音楽や新しいアーティストを皆に紹介するのはいい事。本来ならウガンダ人はとてもオープンマインドになれるはずだと思っている。ダンスも大好きだしね」
現在のウガンダにあるアートの潮流は、音楽だけに留まるものではない。ワカリガというスラム地域にあるフィルムスタジオWakaliwoodで作られている低予算映画もまた、カンパラのクリエイティブコミュニティの中で脚光を浴びている。『Who Killed Captain Alex?』や『BAD BLACK』などの不敵で暴力に満ちた作品は、ウガンダの人々に歓迎されているだけでなく、国際的な注目も浴びている。Wakaliwoodは観光客向けのスポットにもなっていて、撮影日に来た客は映画にカメオ出演することができ、大抵の場合は殺され役としての出演になる。
WakaliwoodやNyege NyegeといったDIYな活動が成功を収めていることは、Elmiにとってある種の救いにもなっている。「物が足りない中で何かを作り出すというのは、無から有を作り出しているようなもので、とてもインスパイアされる」と彼女は言う。「あなたがクリエイティブであれば、何だって出来るということ。無から有を作り出すことができる」

西洋文化が何かにつけては優越してしまう国(そして大陸)において、DilsizianとDebruは長期的な観点をもって取り組んでいる。二人は慎重に言葉を選びながら、西洋とアフリカの文化的交流について語った。「アフリカだけではなにも起こらない、という考え方があるけど、実際は色んな事が起こっている」とDilsizianは言う。「例えばクドゥーロは、非常に残虐なアンゴラ内戦の末期に台頭してきた音楽だ。ダルエスサラームのゲットーで生まれた音楽や、マリのバラニもある。これらは全て、人々が自分たち自身で巻き起こした現象なんだ」。
Nyege Nyegeの核のひとつとなっているのは、自給自足の精神だ。「アンダーグラウンドミュージックに関して言えば、ここも世界の他の場所とそんなに変わらないという事を、時々意識して思い出すようにしている」とDilsizianは続ける。「デトロイト、ロンドン、メンフィス、ダーバン、ルアンダ、ダルエスサラーム、それにグルでも、若者たちはお互いの対話の中で新しいサウンドを作っては、また再構成している。でもアンダーグラウンドのアーティストにとって、特にヨーロッパでのツアーをする機会や、継続的に新しい音楽に触れる機会は、特にアフリカのアーティストの場合、色々な理由でなかなか難しい。ここのアーティスト達はそういう機会がもっと欲しいと切望していて、自分たちで解決できることもあるけど、それにも限界がある。肝心なのはうまいバランスを見つけ出すことで、僕たちは今まさにその変わり目にいる」
Nyege Nyegeは東アフリカ以外にもファンを獲得しているが、そこにはNyege Nyege Tapesが果たした部分が大きい。信頼を集めているマンチェスターのオンラインショップBoomkatが自らの影響力を活かしてレーベルを支援し、主要リリースを大きく取り上げたことも重要なポイントだった。Nyege NyegeはまたNTS Radioとも繋がっていて、NTSの代表アーティスト達(Moxie、anu、A.G.、Skinny Macho)がウガンダに行き、昨年のNyege Nyege FestivalでDJプレイをしたことでますます繋がりが強固になった。
レーベルをスタートした理由は実にシンプルだ。「東アフリカでますます面白くなっているアンダーグラウンドの音を見せるための、ショーケースになる基盤がこれまで無かったんだ」とDilsizianは言う。彼のアフリカンミュージックへの関心は、ケンブリッジ大学の考古学人類学博物館のキュレーターを2年間勤め、博物館が持つ民族音楽のアーカイブをデジタル化したことから始まっている。彼はこの作業を通して、アフリカ中のフィールドレコーディングや伝統音楽に触れたのだ。
ここ数年のリイシューブームで昔の音楽に関心が向いた流れで、西洋の人々がアフリカの音楽に興味を持ちだしているが、一方、Nyege Nyege Tapesは東アフリカで現在何が起こっているかを見せるレーベルだ。この地域の非商業的なエレクトロニックミュージックを幅広く扱うことで、安易なジャンル分けをされないようにしている。これだけの音を一つにまとめる音、もしくはジャンルなどない。フォーカスしているのは新しい音楽だが、アーカイブのリリースももちろんあり、またアフリカの音楽以外も扱っていて、4作目のリリースはギリシャのアーティストMysteriansが手がけたものである。メインプラットフォームであるNyege Nyege Tapesに加えて、DilsizianとDebruはアフリカのグライムとヒップホップ、ベースミュージックに着目した新しいレーベルB.E.S.S.(Boutiq Electroniq Sound Systemの略)も企画中で、コンゴ人のMC Will'stoneの楽曲が最初のリリースとなる予定だ。
「ワールドミュージックのセクションに置いてある、アフリカの音だけのレーベルにはなりたくない」とDebruは言う。「そういうコーナーに一度分類されてしまったら、そこから出るのが難しくなってしまうからね」



Nyege Nyege Tapesは今のところレコードでのリリースはしていないが、まず理由のひとつとして、ウガンダ国内にプレス工場がなく、レコードが作れないことにある。ウガンダの音楽のレコードは、近隣のタンザニアやケニアでプレスしたものだ。「僕たちも実際、レコード・アーカイヴィストのMichel van Oosterhoutの協力のもと、古いウガンダのレコードをディグしてコンピレーションにしようとしている」とDilsizianは言う。「今はごく少数の人々の手にあるだけで、喜んで貸してくれそうだけど、売る予定はない」。他のアフリカの国々と同様、ウガンダではもう何十年もの間、テープが一番一般的なフォーマットだったが、次第にフリーマーケットでも見つけにくくなっている。Dilsizianは、おそらくあと2年で完全に無くなってしまうと予想している。最近では何でもデジタル化しているのだ。「バス停にいるとコンピューターを持っている人がいて、フラッシュドライブやmicro-SDカード、もしくはBluetooth経由で携帯電話に曲を入れてくれるよ」とDilsizianは言った。
Nyege Nyege Tapesの今年のリリースの中でも、特筆すべきものが2つあった。1つ目は、シンゲリという新しいサウンドシステムカルチャーにフォーカスしたコンピレーション『Sounds Of Sisso』だ。今、タンザニアの首都ダルエスサラームのゲットーで盛り上がっているシンゲリは、ムチリク、セベネ、セゲレといった、いくつかの小規模なシーンから発展してきた。中古マーケットで入手した安いCasioのキーボードで作られた高速リズムと、Dogo Niga、Sisso、Bampa Pana、Bwax らアーティストが制作した速いループで(MCのリリックも同様に速い)、クドゥーロやシャンガーンエレクトロ、ともすればガバにも通じる部分がある。しかしながら独自の特徴的なスタイルがあり、Dilsizianの言葉を借りると「完全に気が狂っている」ものだ。

Nyege Nyege Tapesのもう一つの大きな功績は、ウガンダ北部のアチョリ族が住む地域の伝統音楽をエレクトロニックバージョンにした、エレクトロ・アチョリにスポットライトを当てたことだ。2000年代初期に台頭してきたエレクトロ・アチョリは、速く(通常BPM160以上)、とてつもなくキャッチーで、ポリリズミックなビートの上にコールアンドレスポンスのあるボーカルが乗っている。
伝統的なアチョリ族の音楽には様々な社会的な意味が込められている。葬式、卒業式、そのほか結婚式を含む諸々の行事の際に、アーティストがオーダーメイドで曲を作り、幸せなカップルの名前や、家族の詳細な歴史などを曲に入れていくものだ。エレクトロ・アチョリはまず現地で流行り、その後Nyege Nyege Tapesが、元ベアナックル・ボクシングのチャンピオンのOtim Alphaと、エレクトロ・アチョリのサウンドのパイオニアであるプロデューサーLeo P'layengによる楽曲を集めたコンピレーション盤『Gulu City Anthems』をリリースした。『Gulu City Anthems』は2017年2月のリリースで、10月にはAlphaとP'layengが初のウガンダ国外でのツアーとなるヨーロッパツアーを敢行した。アムステルダム、パリ、ブリュッセル、ロッテルダム、ベルリン、デュッセルドルフでのギグを経て、ポーランドの影響力のあるフェスティバルUnsound festivalでもライブショーを披露した。
「自分たちは、エレクトロ・アチョリが誰もが楽しめる音楽になればいいと思っている」とP'layengは言う。「スペイン語、英語、フランス語、スワヒリ語、ルガンダ語、その他どんな言葉でも歌ってほしい。これは自分たちの音楽でなくて、レゲエやポップス、ロックと同様に世界のための音楽だ」。P'layengはまた、アチョリ族の地域ではエレクトロ・アチョリが教育的な目的でも使われていて、特にジェンダーに関わる暴力など、重大な問題にターゲットを当てた歌詞で歌われていると教えてくれた。「自分達にとっては、この音楽は平和のための音楽だよ」

エレクトロ・アチョリの躍進はウガンダ中でトレンドになり、アーティスト達も伝統音楽をFruityLoopsやLogicなどのエレクトロニックなソフトを使って再解釈し始めた。ケニアのアーティストAlai KがDisco Vumbi名義でNyege Nyege Tapesから初めてリリースした作品は、Nilotica Drum Ensembleと、ウガンダのインストロメンタリストMartin Juicy Fonkodiとのコラボレーションにより、ケニアの音楽ベンガを意識して作ったEPだ。伝統とエレクトロニックなスタイルとの邂逅は、Nyege Nyege Tapesから今後リリースされる作品でも追求されている。これからリリースされるのは、ウガンダ東部のバギス族のカドディという音楽で、毎年行なわれるインバルという割礼の儀式で使われる音楽であり、ペースが速く、リズミックなドラムが特徴だ。こちらはNyege Nyege Tapesの民俗学シリーズの一環で、ウガンダ中のさまざまな民族の音楽のショーケースとなる予定だ(ウガンダには54以上の異なる民族が住んでいて、それぞれに独自の音楽的伝統を持っている)。シリーズの中のフォーマットはどれも同じで、伝統音楽が2、3曲入り、フィールドレコーディングがいくつか入ったあと、(Dilsizian曰く「リスナーに音楽が録音された環境を感じてもらうため」)、リミックス曲が2、3曲という構成になっている。
しかし、アフリカのエレクトロニックミュージックは必ずしも伝統音楽と結びついているわけではない。「プロデューサー達はAbletonを使ってパフォーマンスをしているし、カンパラやナイロビの学生達はヨーロッパやアメリカに影響されたテクノやトラップを作っている」とDebruは話す。「伝統音楽をエレクトロニックにという動きは確かに今起こっているけど、同時に、もっと未来に向かった動きも垣間見えてきている。もし皆が家にちょっとしたスタジオを持てるようになったら、何もかもが劇的に変化すると思う。今後10年で、ここの若者達も音楽や映画で食べていけるようになると思うし、自分たちの文化を自分達の言葉で、独立した形でコントロールしていけるようになると思う」



8月のとある午後、ヴィクトリア湖の近くにあるBoutiq Studioを訪ねた。黄色がかった外見のヴィラで、レコーディング用のスペース、キッチン、宿泊施設も備わっている。建物の中は一大活動拠点になっていて、キッチンでは、その日のスタジオ利用者向けにマトケ(青い調理用バナナ)のシチューが10人分以上も用意されていた。スタジオの一室には、ここBoutiq StudioのエンジニアであるZillaことKasakwi Samuelが居る。Zillaは物腰が柔らかく思慮深い人物だ。独学ミュージシャンであり、もとはバンドでプレイしてたが、インターネットカフェで曲作りをしているうちにエレクトロニックミュージックに傾倒していった。今では、他のミュージシャンと仕事をする時間と、自身のマスタリングスキルを上達させる時間、自分のビートを作る時間というように時間を分けて活動している。
ZillaのオープンマインドなアプローチはNyege Nyegeの精神にもよく合っている。「インドからだろうが、中国、ウガンダ、ケニア、コンゴからだろうか、どれであっても全て音楽で、ユニバーサルな言語なんだ」と、コンピューターの横に座りながらZillaは言う。「そして自分は毎日、その言語についてもっと学んでいるわけだよ」
僕はSapiensという名義で作曲をしているアーティストRayが使っている小さなスタジオに入った。彼は今から4年前、コンゴ東部のブニアでの波乱に満ちた生活を離れ、カンパラで新たな生活をスタートした。彼はたった3ヶ月前にFruityLoopsで音楽を作り始め、その後Abletonに移行した。この地域ではまだかなり珍しいケースだ。彼は、彼が自称するところの”コンゴリース・テクノ”(コンゴのテクノ)を作りはじめていて、1日に15時間スタジオで作業している。
「まだ始めたばかりだから、もっと学びたいんだ」とRayは言う。「まずは、今やっているプロジェクトを完成させようと思ってる。この音は新しいスタイルだと思うし、世界の他の地域から来たアーティスト達とも一緒に仕事をしたい」


DilsizianもDebruも共に映画のバックグラウンドを持っていることもあり、このスタジオも2015年にオープンした際は、映画のために使うことを想定していた。だがすぐに音楽用のスタジオに変更し、ここ2年間で徐々に音楽機材や音楽ソフトを買い集めた。以前は数週間使われずに空いていることもあったが、今では一年中使用されている。ここはウガンダ国内のアーティストはもちろん、海外のアーティストとのコラボレーションの場でもあり、お互いの音楽的知識やアイデア、才能を交換し合う場所である。Nyege Nyegeがやっていることはすべて、東アフリカのアーティスト達と、近い志を持つ世界中の人々との対話を推し進めていくことにつながっているが、このBoutiq Studioに於いては、そうした目標が本当に実現可能なものだというのが確かに感じられるのである。
Boutiq Studioにはレジデンシーとして、70年代のアフリカンエレクトロニックミュージックのパイオニア的存在であるニジェールのMamman Saniや、ブルキナファソの政治的なラッパーJoey Les Soldat、カメルーンの伝説的な映画製作者にして思想家のJean-Pierre Bekolo、ルワンダのヴィジュアルアーティストPou Pout、ウガンダのフィドルプレイヤーOcien、タンザニアのBampa PanaとMakaveli、ケニアのMC Yallahといったアフリカのアーティスト達に加え、国外からのゲストとして、アイルランドのサウンドアーティストAlyssa Moxley、ウガンダに3ヶ月滞在したLAのラッパー兼プロデューサーRiddloreらを迎えている。また、GorillazのメンバーJesse Hackettもレジデントであり、楽器演奏者でシンガーのAlbert Ssempeke(ブガンダ王国時代の宮廷音楽家)と、ほか数名のウガンダのアーティストを招聘し、200年前のハープや、10本のフットペダル付きシロフォンなどを使って、アルバム『Ennanga Vision』を制作した。同アルバムはイギリスのレーベルSoundway Recordsから今年の序盤にリリースされている。
「来た人達は、ここでの演奏や滞在を本当に楽しんでくれるけど、未知な体験だけに、ちょっと心配して来る人もいる。だけど、このスタジオが、彼らにとって未知なものへの入り口の役を果たしてるんだ」とDebruは言う。
Dilsizianによると、海外のアーティストがウガンダに来て最初に気づくことは、日常生活の中に音楽やパフォーマンスにつながる要素が自然に存在していることだと言う。「パフォーマーと観客、音楽とダンスの間の流動性がとても高い。アフリカでは、ダンスはその場所の状況に左右されるものではないんだ。ヨーロッパではクラブの白い正方形の空間がダンスによってアートになるという感覚だと思う」
僕がBoutiq Studioを訪れた日も、インターナショナルなコラボレーションが行われていた。重たいカーテンを開けると、Nilotica Drum EnsembleがBlip DiscsのアーティストSpooky J(ドラム)、Ben Beheshty(エンジニア)、Pete Jones(シンセサイザー)と共にライブアルバムをレコーディングしているのが見えた。このNihiloxicaと名付けられたプロジェクトは、昨年のNyege Nyege Festivalの初日に初披露され、アルバムはNyege Nyege Tapesから11月にリリースされた。
長雨が降り始め、合間に遠くで雷が鳴っているのが聞こえる中、全員がスタジオのパティオに集合していた。Nilotica Drum Ensembleのカリスマ的リーダーであるJajaが人々に囲まれている。Jajaは霊能者であり、格闘技の熟練者でもある。アンサンブルに加入した若いパーカッショニストは、ドラムのスキルだけではなく服の縫製の技術も教わるという。Jajaは「彼らは我々の兄弟だ」とDebruとDilsizianのほうを向いて言う。「我々にとって、彼らが電子楽器と伝統的なパーカッションや生の楽器の音をミックスしている時は文化の交流なんだ。お互いに学び合っている」。
このコラボレーションに関わった主要メンバー同士については、利益はもちろん、クリエイティブ面での決定権に至るまで、全てにおいて、きっちりと分割されていた。「自分たちはウガンダ中のいろんな楽団とレコーディングをしてきたけど、毎度のように同じような展開になる。民族音楽研究者が来て、レコーディングして帰り、決してそのレコーディングした音源は渡してくれない。だから、ウガンダの伝統音楽ミュージシャンの間では『交流』がフェアなものとは限らないという不信感が広がっていたりする」とDilsizianは言った。
そんな中、Boutiq Studioは今後、現在地から離れることになっている。つい最近、この場所を駐車場にするために建物を取り壊す予定があることがわかったのだ。Dilsizianは「今は別な方法について考えているところで、新しい場所に移るためのファンドレイジングも検討中だ」と言った。





昨年のNyege Nyege Festival開催まで、あと1週間に迫った金曜日、Dilsizianは自前の4WD車でグガバ・ロードから伸びたでこぼこ道を走らせていた。道沿いにはびっしりと、市場や賭博場、ポークジョイント(骨つき豚肉)のレストランや、バーなどが見えている。助手席にいるのは、ブルキナファソでAfro Bass Culture festivalを運営しているCamilleだ。彼らはカンパラ郊外の廃工場で行われるパーティーに行く前にビールを仕入れに来たのだ。その日の早い時間に降った強い雨で、道路のくぼみには浅く水たまりが出来ていたが、夕暮れの風はすでに乾いていた。東アフリカでフェスティバルをやる大変さを語るDilsizianもまた、その風と同じ位ドライな話を始めた。
「ウガンダ国内にはCDJが3組しかない」と、Dilsizianはバックミラーをちらりと見ながら言う。「そして、そのうち借りられるのは2組だけだ」。レコード用のデッキもおおよそ同じくらいの台数しかないらしく、出演者の半数以上がDJのフェスティバルをやるには大きなハードルとなっているのだ。
それを聞いたCamilleも皮肉っぽく笑いながら言う。「ブルキナファソだと、CDJを1組探すのだって難しいよ」
Nyege Nyege Festival開催が近づくにつれ、他のフェスティバルのプロモーター達と同様、Dilsizianの携帯もひっきりなしに鳴り響き、一つの用事が済んだと思えばまたすぐに次の用事へ、という有様になってきた。その日の朝もWakaliwoodのフィルムスタジオに行き、スタジオ設立者のIsaac Nabwanaに会っている。2015年、2016年に引き続き、2017年もフェスティバル中に撮影クルーを入れ、ゲリラ的な撮影を行う企画について話してきた。フェスティバルの参加者はその場で殺され役の演技をすることになる。2017年の今回も、開催中の1晩だけ撮影クルーとカメラを派遣することで合意した。Dilsizianは「今年も殺され役ができるかどうかを楽しみにして、フェスティバルに来る参加者もいるはずだ」とWakaliwoodの編集ルームで語り、Nabwanaもそれに同意していた。
ウガンダでフェスティバルを運営する中でDilsizianが学んだのは、何かアクシデントがあったとしても、とにかくうまくやっていくということだ。今年は、フェスティバル会場の持ち主が何処かでNyege Nyegeの人気の高まりについての噂を聞きつけたようで、もっとレンタル料金を払わないと同意を撤回すると言いだした。書面での契約がなかったため、DilsizianとDebruはひとつ賭けに出ることにし、持ち主が先に諦めるのを待つことにした(彼らは結局なんとか持ち主をなだめることに成功したが、その後数日は値段交渉が続いたそうだ)。
「ここでは何事も流動的なんだ」とDilsizianは言った。
Dilsizianは車から降りて、ビールを買いに慌ただしく店に入っていったが、すぐに戻ってきて車のドアを閉めた。「もしテントを500個借りたいと言ったとする」イグニションにキーを入れながら続ける。「ウガンダには大量のテントを貸し出してくれる人は誰もいない。それで3、40の別々な業者と話しているので、うまくいかない可能性も3、40個増えるんだ」。どんな音楽フェスティバルにおいても最も重要な設備といえる仮設トイレも、ウガンダでは極めて貴重だ。「国内に少ししかないから、レンタル料もとんでもなく高額なんだよ」
パーティーに向かう道すがら、Dilsizianはカンパラの危険な側面について話してくれた。「基本的にはすごくフレンドリーでオープンマインドな地域なんだけど、多くの人が必死で暮らしている厳しい場所でもある」
そう言うと、Dilsizianはハンドルをぐっと左に切り、車を路肩に寄せた。
「できればそういう悪い面は見たくないだろ」と彼が言うや否や、前後を黒い車で護衛された白い4WD車が自分達の車の右側を通り過ぎていった。護衛の車には、肩からマシンガンを下げた男達が後ろ向きに乗っていて、無表情でこちらを見つめていた。




2015年に初めて開催されたNyege Nyege Festivalは、思いついてから開催するまでたったの6週間だったが、この小さなグループ内の全員の途方もない尽力によって、成功に終わった。2017年は、遠くはメキシコやスコットランドからもボランティアスタッフがやってきた。参加アーティストの大半が、パフォーマンス以外にもフェスティバルの手伝いをしていて、メキシコのプロデューサーEmiliano Mottaはメインステージの音響技術者としても休みなく活躍した。開催中に2度のDJセットを披露したKampireは、フェスティバルのプレス連絡及びコミュニケーションマネージャーとしても働いた。
フェスティバルの開催地は、カンパラから車で数時間のところにある、植民地時代の街ジンジャだ。近くの宿泊施設に止まっている参加者達は、ボダボダと呼ばれるバイクタクシーに乗って会場まで移動する。会場となったNile Discovery Beach Resortは草に覆われ、崩れ落ちそうな雰囲気の場所で、実際にオープンを迎えることないまま放置された元リゾート施設である。どこか魔法がかった、失われた世界のような雰囲気があり、曲がりくねった道が深いジャングルに続き、使われていない水力発電施設がナイル川の中に見える。観客達はNile Specialというビールやカクテルで酔っ払い、ジャークチキンやカレー、そしてウガンダ名物のロレックス(油たっぷりのチャパティで卵焼きとアボカドを巻いたもの)を売る店が並んでいる。
フェスティバルの4つあるステージの中で最も印象的だったのが、スコットランドのコレクティブSamedia Shebeenの監修による”Eternal Disco”ステージだった。ケニアから運ばれてきたFunktion-Oneのサウンドシステムが設置され、さらに最高だったのが、ナイル川が見渡せるモザイクタイルのダンスフロアになっていたことだ。ウガンダのパイオニア的アーティストのDJ Rachaelのプレイを体験したのもこのステージだ。DJ Rachaelは東アフリカの女性DJ達向けのメンタープログラムFemme Electronicの主催者でもある。彼女のプレイ中は、彼女の息子のCruzのダンスにすっかり参ってしまった。近くには、こちらもケニアからやってきたマンモス級のダブレゲエクルーUmojah Sound Systemの機材が陣取っている。Umojah Sound Systemの主催者はSheel DreadことDread Steppaで、おそらくアフリカ最大規模のレゲエクルーだ。人々はサウンドシステムの近くに集まっては重低音を浴びていた。
基本的には3日間ノンストップで行われるこのフェスティバルのプログラムには、あらゆる種類の音楽が取り入れられていた。カメルーンのポップアーティストRenissは、2016年のヒット曲"La Sauce (Dans La Sauce)”を全員女性で構成されたオーケストラを従えて演奏、ステージを”占拠”し、セットを締めくくった。Kongolokoはコンゴのヒップホップ、南アフリカのデュオCruel Boyzはゴム(Gqom、南アフリカのダーバンで盛り上がっている新ジャンル)を観客達に教示した。カンパラの素晴らしきパーカッション集団Buganda Music Ensembleは、メインステージで楽しげなライブパフォーマンスを繰り広げた。ナイロビの若きコレクティブEA Waveは、Eternal Discoのブースの後ろでエキサイティングに跳ね回りながら、トラップ、ヒップホップ、ハウスをプレイした。会場内で居る場所を選ぶだけで、EDMからエクスペリメンタルミュージックに至るまで、何でも聴くことができるフェスティバルなのである。
アフリカ外からのブッキングも24組ほどいたが、ヨーロッパのダンスミュージックフェスティバルを独占しているラインナップとは全く違う新鮮な顔ぶれで、何かしらの形でアフリカの音楽にインスパイアされたアーティストに幅広くフォーカスを当てていた。ポリリズムの信奉者Harmonious TheloniousはEternal Discoステージでプレイし、イタリアのデュオNinos Du Brasilが金曜に見せた激しいライブは週末のベストセットだった。そしてオランダの一匹狼的なDJであるDJ Marcelleは、3台のターンテーブルを駆使して驚愕のエクスペリメンタルセットを披露した。
しかし、中でも最もスペシャルなパフォーマンスをみせてくれたのは、Hibotep、Kampire、Otim Alpha、Nilotica Drum Ensemble(会場内に服作りのブースも出展していた)、そしてSisso Recordsら、Nyege Nyegeの中心的アーティストたちだった。地元ダルエスサラームからバスでやってきたSisso Recordsのクルーにとっては、今回がタンザニア国外では初のパフォーマンスだった。Otim Alphaはめまいがするほど鮮やかなキテンゲ(アフリカ独自のろうけつ染の生地)のスーツを着て、Leo P'layengとそろってステージに立った。まずAlphaが、ウガンダ北部のハープのような楽器アドゥングを熟練の雰囲気で演奏し、そこからP'layengと共にパワー溢れるエレクトロ・アチョリのヒット曲の数々になだれこんでいった。
土曜に宴はピークに達し、7000名近くの人々が来場した。間違いなく、東アフリカ史上最大のエレクトロミュージックイベントとなった。参加者の中にはルワンダ、南アフリカ、エチオピア、タンザニア、ザンビア、コンゴ、もっと遠方からやってきた人もいた。開催地のジンジャはナイロビとカンパラをつなぐ道路のエリアにあるため、ケニアからの観客は大勢いて、パフォーマーや参加者達を運ぶパーティーバスは12時間もかけて運転してきたという。
最終日の夜のまだ浅いうちに、前述の水力発電施設の向こう側に稲妻が光るのが見えた。途端、土砂降りの大雨が降り始め、そのまま深夜まで降り続けた。暗くて雨で滑りやすくなったリゾート内の歩道には水が溢れ始めた。人々はフードブースからメインステージ側へと下る丘の上から、泥になった下り坂のスロープを腹ばいに滑り降りていった。その後、ほとんどの人々が雨をしのげる場所を探す中で、ずぶ濡れになったDilsizianが、メインステージでライブパフォーマンス中のNihiloxicaに向かって踊っているのを見た。そこから随分、本当に随分経ったころ、ようやく雨が止んだ。その場に残った気合いの入った人々は夜が明けたあとも踊りつづけたようだった。









今年のフェスティバルの喧騒がひと段落つき、Nyege Nyegeのクルーは今後のことについて考えている。フェスティバル後、Dilsizianから来たメールには「また新たな課題がたくさん見えてきたが、懸命に頑張ることができ、何が起きても取り返せるという点と、この地域からどんどんヤバい才能を発掘することについては、もう自信ができた。うまくいくよ」と書かれていた。「ラインナップを大幅に増やしていくと、仮に2つステージを増やしたとしても、何かしらの形で分割する可能性はあると思う。この地域で音楽面で冒険的なフェスティバルを開催することが可能で、しかも十分に商業的にも成功できることはすでに証明できた。今度はプロダクション面を強化して、ラインナップももっとクレイジーに、パフォーマンスももっとお金をかけてキュレーションし、アフリカ中からより多くのアーティストを集めたいと思っている」
Nyege Nyegeのレーベル、フェスティバル、スタジオが継続的に成功できているのは、アーティストに自身のキャリアを形作る場を与えるためのプラットフォームになっているからだ。2018年の3月には、Nyege Nyegeクルーの西アフリカツアーが決まっていて、ガーナ、ブルキナファソ、マリを回る予定だ。それに先立ち、2月にはNyege Nyegeからの先鋭チームがコンゴのゴマに行く予定だ。ゴマは、夜間はニーラゴンゴ山の溶岩が赤く光って見える街で、そこでNGOの資金提供で行われるAmani Festivalに出演するのだ。このフェスティバルは入場料が1米ドルのため、1日で1万人以上の動員があるという。NihiloxicaはベルリンでCTM Festival 2018に出演する。少し前には、Sisso crewのBampa PanaとMakavelliが、スイスのローザンヌで行われたLes Urbaines festivalに出演した。
2017年のNyege Nyege Festivalで2度もプレイしたHibo ElmiことHibotepは、フェスティバルでの反響からとても刺激を受けたという。「以前、DJは自分にとって趣味の一つだったけど、そのエキサイティングさを実感し、誰かにとっての一夜を作り出せたと感じ、誰かを幸せにできたと感じたのが全てのきっかけになった。今は趣味でDJしようとは思わない。人生をかけてやっていきたい」
一方、Kampire Bahanaは、プロフェッショナルなDJになることを視野に入れている。「特にアフリカでのことだけど、やはりパーティーでプレイするときにはギャラをもらいたい」と彼女は言う。「ヨーロッパやアメリカで評価されれば、もしくは、本物のアクトだと認めてもらえれば、ここでもちゃんと支払いを受けられると思う。だからウガンダでちゃんと独立して生計をたてているDJやミュージシャン達、メインストリームの外でそれなりの成果を上げ、少なくても精神的な面で、できればもちろん、経済的にもうまくやっている人達ともっと出会っていきたい。そういうDJになるのが自分の夢だから。もちろん本気でね」
Kampire: Nyege Nyege mix
Kampireが自身のフェイバリットチューンからセレクトした、アップテンポなアフリカンサウンドのエクスクルーシブミックス。
Kampireが自身のフェイバリットチューンからセレクトした、アップテンポなアフリカンサウンドのエクスクルーシブミックス。