
日本のトップDJのひとりであるDJ KENSEIが、自身の音楽遍歴においてターニングポイントとなった重要な10枚を語る。
80年代半ば、ハウスとヒップホップが明確に別のジャンルとして分離してしまう前から、東京で斬新なクラブ・ミュージックを幅広く吸収してきたDJ KENSEIは、その長いキャリアにおいて常に新鮮なサウンド、独創的な表現を求め、DJにおいても、プロデュースにおいても、ひとつの枠に収まることはなかった。90年代を通して、ラップ・アーティストのプロデュースやリミックス仕事をこなし、Bボーイ魂を揺さぶるヒップホップ・ミックステープを数々リリースしたが、1995年には、レコード・コレクターのNIKと、エンジニアのD.O.I.と共にプロダクション・チーム、Indopepsychicsを結成し、90年代後半になるとエレクトロニカやアンビエント、ブレイクビーツ、アブストラクトといったサウンドを追究した。
2000年代以降も、DJ QuietstormとのDJセッション・アルバムや、オールドスクール・ヒップホップの鬼才、Rammellzeeとのコラボレーション、OM Recordsのオフィシャル・ミックスの制作、ジャズ・オルガン奏者KankawaとのNudejazzプロジェクト、DJ SagaraxxとのDJユニットCoffee & Cigarettes Bandの活動、伝説のジャズ・ベーシスト鈴木勳とのライブ・セッションを収めたアルバムのリリースなど、活動は多岐に渡る。今回はそんな彼に、お気に入りのレコードについて語ってもらった。「このレコードを聴いてから、そういう音楽を聴くようになった、というレコードが多いですね」と説明してくれたことからも解るとおり、ここに挙げられた10枚は、彼の音楽旅を新しい方向へと定めた作品たちである。


For You
1982
生まれは東京なんですけど、中学のときは神奈川県伊勢原市というところに住んでいました。友達の兄貴がサーフショップをやっていて、良く遊びに行っていて、その彼の影響で大滝詠一とか、山下達郎とか夏っぽいのを聴くようになって。『For You』が発売されたときに買いに行ったら売り切れていて、『Spacy』(1977年)というアルバムをしょうがないから買って帰った想い出があります(笑)。後で『For You』を買ったんですけど、当時の自分にはこっちのアルバムのほうがしっくりきましたね。
このアルバムのどういう所に魅力を感じましたか?
リバーブ感というか。もちろん当時はリバーブ感だとは思ってなかったですけど。レンジの広い、爽やかな感じがしました。今でいうシティー・ポップスですけど、当時はそういうイメージではなくて、とにかく聴いた感じが爽やかで、気持ち良いなって。でも山下達郎は『Melodies』以降はそんなに聴かなくなりましたね。そのぐらいにもうDJを始めていたんで。
DJを始めたのはいつですか?
17歳ぐらいのころ、1986年とかですかね。東京に戻った後だったんですけど、僕の高校には遊び人というか、やんちゃな人が多くて。皆日曜にはクラブとかディスコでパーティーをやっていて。DJと知り合ってそういう場所に行くようになって、そういう音楽を聴くようになりましたね。ヒップホップやハウスも含め、ディスコでかかっていたダンス・ミュージック全般ですね。お店にレコードがいっぱいあったんで、それを聴かせてもらってました。お店が所有しているレコードを使って皆DJしていたんです。だからいきなり千枚とか二千枚とかのレコードを聴くことができるようになりましたね。

Music Madness
1986
僕はブラック・ミュージック系のディスコに知り合いが多かったんで、そういうお店で聴かせてもらってた当時の新譜のレコードがエレクトロ・ファンクとか、ドラムマシンを使った曲とかだったりで。でもMantronixがかかったときは、ちょっと様子が違ったんですよね。当時のその店のサウンドシステムで聴いて、このエディット感というか、打ち込み感、マシン感…あと、ダブ処理みたいなのに、「これは何だろう!」って衝撃を受けたんですよね。Sleeping Bagから出たDhar Braxtonの“Jump Back”とか、そういうのもディスコのチャートで凄い人気があって。Jellybeanとか、そういうのをあまり理解しないで聴いていたんだけど、Mantronixはそういうものの先にある音楽、という印象でしたね。ただ、当時はまだMantronixをかけてフロアを盛り上げるほどのスキルはなかったんで、僕よりも上の世代のDJたちがかけるのを見ていただけでした。
一番印象に残ってるのが、当時、渋谷にHIP HOPというクラブがあったんですけど、そこに、サンプラーとキーボードが置いてあって、4台のターンテーブルもあって。Mantronixがやってるようなことをライブでやっていたんですよ。クロスフェーダーが付いてるミキサーもそこで初めて見たんですけど、そこで、こういう音楽がかかってましたね。
当時のDJは現在のDJとどう違いましたか?
少なくとも僕が見ていたDJは、皆喋り(曲紹介)もうまかったし照明などの演出もきっちり出来るし、テクノロジーや情報が無い代わりに独自な工夫をしてたと思います。縦フェーダーでミックスしながらロータリーのピッチコントロールをいじりながら生音をミックスしたりとか。

Makossa '87
1986
これもそういった流れで聴いた曲なんですけど、アフリカっぽいイメージなのに、エレクトリックなサウンドでもあって、とても印象に残りましたね。そしてクレジットを見てみたらD.St.とか、Bill Laswell、Herbie Hancockといった名前があって、「ジャズの人達もこういうことをしているのか」って知ったんですよね。
Bill Laswellはプロデューサーとして幅広い音楽に関わってきた人物ですが、影響を受けましたか?
いや、プロデューサーとしてというよりは、お店や先輩のDJの家に行くとCelluloidのレコードがあって、クレジットにBill Laswellって書いてあって。だから「Bill Laswellが好き」って思って聴いていたというよりは、気づいたら自然と聴いて「格好良いな」って思っていたというか。
このレコードは当時DJでかけていましたか?
いや、まだ持っていただけですね。当時、僕にとっては使いこなすのが難しくて。ラテンフリースタイルとか、お店に置いてあったレコードをかけてました。Feverっていうレーベルのものとか、Cameoとか。それまで10年ぐらいDJをやっている人は、すぐ使いこなせたかもしれないですけど、僕は当時まだ駆け出しだったんで。時代もあるのかもしれないですけど、いきなり自分の好みでそういうのをかけて、成立するような現場じゃなかったんですよね。
当時のクラブは、どういった雰囲気でした?
この頃は僕も若かったんで、見るもの全てが新鮮で。今となっては大物のDJも当時はフロアでよく見かけましたね。そして皆踊ってました。今ってなんか、踊るというよりは揺れてるというか、ちょっとコンサートみたいな感じで来る人も多いと思うんですけど、当時はちゃんと踊ってましたね。平日でもとてもパーティー感があって。
熱気が今とは比べ物にならない時代で、クラブが特別な場所だった気がします。情報もあまり無いし、全てがミステリアスで。お店側が客を選んで、入店を断る店もあったり。危険な場所でもあり、だからこそ面白くもあり。音楽を聴いていたというよりは、音楽の波動を浴びていた感じなんですよね。家でレコードで音楽を聴くんじゃなくて、毎日お店のサウンドシステムで音を浴びていた、というか。アーティストがどうとかよりは、そのお店に行くと、いつもそういう音がかかっているから、それを毎日浴びに行くのが楽しかった。
このクラブではこういう音楽が聴ける、とある程度決まっていたんですね?
ハコによってカラーがあって、個性的だったんですよ。主に80年代後半は六本木でDJしていたんですけど、当時は100軒ぐらいお店があって。近くのクラブのDJと仲良くなって、自分のDJが終わって他のクラブに行くと、全然違う世界があるんですよね。ブースの中で「今日新譜が出たんだけど、これかけようぜ」って話をして。レコード屋も深夜まで空いていて、出番前にレコ屋行ったりしてましたね。


Can U Party
1988
これは、六本木のクラブでDJをしていたときに、一緒にDJをしていた人が買って来たレコードだったんですよ。Jungle Brothersの“I’ll House You”という曲でも使われたし、大ヒットした曲なんですけど、(アルバム『Can You Party』収録の)“The Journey”とか“The Chase”、“Dirty Beats”とか、僕は全部12インチで持っていて、ビートだけのやつとかそういうのをかけていましたね。
僕は元々ディスコのハコ付きDJから始めてるんで、最初から仕事として入ったんですよ。だから制約があって、その制約の中でいかに自分のカラーを出すかが重要で。「こういう曲で盛り上げてくれ」とか言われる箱もあるんですけど、毎日やってると苦痛になってくるから、その曲のダブ・バージョンをかけたり、2枚使いでエディットしたりリミックスしたり、自分で工夫して。お客さんが知ってる曲だけど、違う聴かせ方をすることでお店側の要望も答えつつ、自分の個性も出すということをやっていて。そういうことが楽しかった時期が80年代後半ぐらいですね。
プロデューサーとして、Todd Terryにはどういう影響を受けました?
後で気づいたことですけど、これとかM/A/R/R/Sの“Pump Up The Volume”とかって、いわゆるDJが作る音楽なんですよね。それまではミュージシャンだとか音楽プロデューサーが作った曲が多かったと思うんですけど、これってほぼサンプリングとリズムの打ち込みだけで作られていて。そのサンプリングの元ネタを聴いた時に「あれ、そのまんまじゃん」って気づいたのがこれぐらいの時期のヒップホップだったり、Todd Terryだったりで。このサンプリング感が凄い衝撃でしたね。
そういった曲に触発されて、プロデュースを始めたのですか?
すぐに「サンプリングをして曲を作ろう」とはならずに、そういった曲をいかにDJでかけるかって考えてましたね。当時サンプラーも高かったので、先輩のスタジオに行って常に見てるって感じでしたね。それより先にMTRを使ってマスターミックスを作る方が好きでした。1990年ぐらいに、HIP HOPという店で回していたMarvinという人がM.K. Freshというクルーをやっていて、そのアルバムに2曲提供したのが最初ですね。
その時点では、プロデューサーも仕事としてやっていきたいという考えがあったのですか?
両立するのは難しいとは思ってましたね。音楽的なバックグラウンドはないままDJを始めてるんで、まずはDJをしっかりやりたいなと。ただ、そういう音楽を作りたいとは思ってたんで、スタジオに常に行って、機材の使い方を教えてもらったりしてました。
作り始めたころのトラックはどういう雰囲気でしたか?
最初はAkai MPC60やS612、Korg DDD-1なんかを借りて使って作った記憶があります。後にUKのBizarre Incというグループに参加する平田さんという人にキーボードとか弾いてもらった曲とかもあったと思います。ブルックリンから来ていたMC BORNというやつのトラックはSoul Searchersのワンループにスクラッチだけだったり、スクラッチで参加した曲はTEAC M3という当時の縦フェーダーのみのディスコミキサーを改造してクロスフェーダーをつけたものを使ってたりしてました。ただ当時は個人でというよりスタジオのアナログのそれなりの卓でちゃんとミックスしてもらっていたので質感やバランスはいいと思います。
当時はヒップホップのみを作っていたのですか?ハウスも作っていました?
ヒップホップ、ハウスという認識なく作ってた感じです。テンポが早いとか遅いとかで。むしろ、日本だと80年代ってあまりハウスという認識がなかったと思いますね。「ハウスはこういうものだ」っていう定義がなくて。これがNYハウス、これがシカゴハウスとか皆良く解ってなかった。シカゴハウスのコンピレーションはあって、Traxとかこういうのはあるんだなって認識はありましたけど、じゃあハウスのパーティーをやろうとかはなくて、そのお店にあるレコードと混ぜてかけるっていう感覚でしたね。当時のビルボードのダンスチャートに入っていたようなものと、ハウスやヒップホップをミックスするという。ジャンルを限定してかけるよりは、その時代の新譜をかけていましたね。
以前、DJ Spinnaにお話をきいたときも、80年代後半のニューヨークではハウスもヒップホップも混ぜてかけるのが当たり前だったと言っていました。
僕の周りでもそうでしたね。お店のカラーに合わせて曲を選ぶとかはありましたけど。

The Album
1993
これもDJが作る音楽だなという印象を受けました。ハウスもヒップホップも入ってますね。91年とか92年ぐらいに、ハコ付きDJからフリーになって、自分のレコードを持ってオーガナイザーがいるパーティーでDJするようになったんです。当時のヒップホップとかハウスをかけるときに、こういうレコードがあるとクロスオーバーができるんで、そういう音楽ばかりを増やしていましたね。で、こういうトラックの中にレゲエとかディスコとかがサンプリングされているんで、自然にそういうルーツに戻ったりとか。音楽の趣向は完全にDJ目線でしたね。「このアーティストが好き」というよりは、「ここで鳴っている音が好き」っていう。レコード屋さんはほぼ毎日行ってましたね。新しいものを買って、皆でシェアして。
92年に僕はシドニーに行ってるんですよ。さっきのMarvinという人に、「シドニーでクラブをやるから1年ぐらいいてくれないか?」と言われて。海外で長期に渡ってDJをするという経験もなかなかできないし、家もついているということで、1年ほどシドニーでDJしていました。
当時のシドニーのクラブはどうでした?
勢いはありましたね。イギリスやアメリカのDJもいっぱい来てたし。色んなヒップホップ・アーティストのライブとか見れたし。
当時の日本にはヒップホップ・アーティストがあまり来日しなかったのですか?
来てはいたんですけど、自分の中では、あまりカジュアルに行ける印象じゃなかったというか。アンダーグラウンドな感じがあった。向こうでは、ちょっとした広場みたいなところでやっていたり、人が踊ってるようなクラブに普通に来ていたりしてましたね。


Gemini IV & V Space Nova!
1998
ディスコといったらボーカルが入っているものが当たり前だったんですけど、歌のない、DJの作るトラックというか、DJのツールみたいな音楽がDJ的に凄く好きで。そういう流れで90年代の半ばになると、Mo’ WaxとかNinja Tuneとか、更にそれを進化させたような音楽に興味を持つようになって。それでインストの音楽を作りたいと思ったんですよね。その頃もラッパー用のトラックは作っていたんですけど、むしろこういうほうが自分で使えるから好きだったんです。そういう時期に作ったのがこれですね。
このレコードはどういうきっかけでリリースに至ったのですか?
当時Dance Music Recordというレコード屋さんがあって、そこと須永辰緒さんがレーベルを始めて、リミックスの依頼を受けたんです。月面着陸のときの音声を使った曲があって、これのリミックスをして欲しいと言われて。テーマが面白いなって思ったんですよね。当時はDJ Spinnaの作品とか良く聴いていたんで、ちょっとスペーシーな世界観を作りたいなって思って。当時あまりこういうものが無かったんです。出した頃は全然評価されなかったですけどね(笑)。とにかくビートを太くしたいって考えて作りましたね。
今改めて聴いて、どう思いますか?
意外に今でもかけてくれる人はいるんですけど、個人的には気に入ってますね。Chapter 1、2、3ってあって、ボーナスビートみたいになってるんで、DJのときに2枚使ってエディットして素材としてかけられるんですよね。ヒップホップ的には当時、売れるか売れないかみたいな時代だったんですけど、僕は自分がかけられるかどうか、かけたくなるかどうかが基準でしたね。

Gobi. The Desert EP
1999
元々ディスコのDJとして始めたんですけど、キラーチューンで盛り上げるとかよりも、いかに自分のグルーヴで雰囲気を保つか、みたいな方向にそのうち魅力を感じるようになって。それでずっとインストもの中心にDJをするようになったんです。その行き着く果てがこういう音響的なものだったんですよね。このレコードに到達するまで、Mo’ WaxのUrban Tribeとか、Rhythm & Soundとか、色々通りました。話すと長くなりますが。
レコード屋の影響も大きかったと思います。そういうインストもののレコードを買いに、Hot WaxとかDemodeとか、いわゆるメインストリームじゃない音源を扱っているレコード屋さんに通っていたんですけど、そういう場所で色々な音楽と出会うんですよね。それでこういう音を聴き始めたんです。Theo Parrishのテープを初めて聴いたのもそういうレコード屋さんでした。
このレコードはほぼビートレスのアンビエント作品です。リズムの要素がない作品をDJでどのように活用するようになったのですか?
フロアでプレイするって考えるとこういうのはかけなかったですけど、例えばMo’ WaxとかNinja Tuneとかかけていた時代に、京都Communicate Muteってパーティーがあったんですけど、森の中の厳かな雰囲気の環境でそういう音をかけていて。そういう所で聴くと感銘を受けるというか。あと例えば他のフロアで鳴ってるビートダウンの曲とミックスされて「良いな」って思ったり。そういう感じで好きになりましたね。そういう環境に自ら行くことで好きになることが多いですね、僕の場合は。
野外の、いわゆるフェスとかじゃなくて洞窟とか、色んな環境でDJをやることになるんですけど、そういう所では一般的に知られていない、当時のメディアがなかなか紹介しない音楽とかがかかっていて、そこにしかないグルーヴがあるんですよね。都会で自分がやってた音楽やグルーヴや時間軸がしっくりこなかったというか。そこに嵌る音楽を探すようになって、そういう時代にこういう作品と出会ったんです。それから、フィールド・レコーディングに興味を持っちゃって。ビートの質感を追って行って、どんどんレンジが広がって行って、サウンドそのものに興味を持った、っていう感じですね。色々な人との出会いがあって、それがまた新しい音楽に繋がって。そういう人のパーティーでDJをすることで、また新しい音楽に興味を持って。ヨーロッパとかにも呼ばれるようになって、どんどんと音楽性が幅広がっていきましたね。自分にとっては、人との出会いが音楽に与える影響は大きいかなと思います。


Tourist
2000
タイのランター島という所で一ヶ月ぐらいDJをしていたんですよ。バンコクのカオサン通りっていう所を通っていたときに、このアルバムのCDがやたらかかっていたんです。2000年代前半はトラベラーがバンコクに多くて、多分そういう人が置いてくんですよね。それをブートで売ってるみたいな。当時、タイの知り合いのDJは皆これが好きで。タイの空気に凄くしっくり嵌ったんですよね。東京で聴いていたら、好きになっていたかどうか解らないです。
これはジャズとエレクトロニック・ミュージックを融合させた作品ですが、ジャズは以前から聴いていましたか?
いわゆるジャズのアーティストを掘り下げて聴くっていうのは、サンプリングのネタとして90年代聴いてましたけど、ちゃんとはあまり聴いてなかったです。今ではちゃんと聴きますけど、DJ Smashとかを好きになった頃は、サンプリングされているトラックとしてジャズが好きだったというか。演奏感は良く解ってなかったですね。むしろチョップされてる方がカッコいいなと。最近はミュージシャンとかとセッションするようになって、理解できるようになりましたね。
例えば本を読んで、知識としてジャズについて知ろうとしても、なんか入って来ないんですよね。身体で理解しないと入って来ない。その間も、ジャズっぽいものは自然には聴いていたんですけど、本を読んで学ぶっていうよりは体感して学んで来た感じですね。
さきほど(インタビューが始まる前)、KENSEIさんはレコードを通販ではなくてレコード屋さんで直接買うのが好きとおっしゃってましたが、それと繋がるものがありますね。
直接感じないと好きになれないというか。自分の中でリアリティーがないとしっくりこないんですよね。

Dreamer's Blue’s
2001
Theo Parrishが初めてYellowでDJした時、共演させてもらったんですけど、彼の曲はすごく斬新で、特徴があって、質感も面白いなって。フィールド・レコーディングとかを経て、しかも長いことディスコのDJとかもやっていたのを経て、全てを兼ね備えている作品を出してるなって思ったんですよね。音響的だし、かといってハイファイじゃない、ドス黒いブラック・ミュージック感があって。あと、DJがやっぱり聴いたこと無い感じだったんですよね。それまでの自分の中のセオリーをぶっ壊されたというか。本当の意味でクロスオーバーなんだなって思って。なんでもかけていたから。しかも知らない曲ばかりで。でも実は自分の持っている曲のアルバムに入ってる違う曲だったり…凄いDJだなって思いましたね。2000年代中盤から一番刺激的だったDJって言ったら、Theo Parrishですね。
特にこのレコードを挙げた理由は?
Theo Parrishのレコードの中では、これが一番自分がかけたレコードなんです。「こんな曲聴いたこと無い」って思ったんですよね。単純に好みなんじゃないですかね。僕の周りでは、あまりこれを好きだって言う人は居ないんですけど(笑)。
2000年代に入ってからのKENSEIさんのDJは、90年代の頃と比べてどういった変化がありました?
90年代後半にIndopeの活動をやって、ああいったサウンドを打ち出したことでそれまでと全然違う人と出会って、行くパーティーや、訪れる国が変わって、そこから色々インスピレーションを受けましたね。タイのランター島で、ビーチ沿いにある、バーとDJブースがついているお店で、バンコクのDJとやっていたんですが、皆凄く良い曲をかけるんですよね。そこのシチュエーションに嵌るような。Mark FarinaのMushroom Jazzだったりとか、OM Recordsの音源だったりとかをかけていて。東京で聴いたことがあるものもあったけど、ランター島と凄く相性が良かったんですよね。あと、ウエストコーストからヒップホップ的な質感のハウスが沢山出ていることを知って、またハウスをよくかけるようになった時期もあって。とにかくヨーロッパに良く行くようになったのと、タイの島で受けたイメージが、2000年代の僕のDJにかなり反映されたと思いますね。
ヨーロッパのパーティーは日本とどう違うと感じました?
例えばSonarみたいなフェスはお祭りだから陽気だし楽しいんですけど、オーストリアの田舎のサーカスでDJしたり、街なかの路上でDJしたり、クラブでのパーティーばっかりじゃなかったのが、自分には合っていたというか。あとジャンルでくくらなくても、自然に楽しんでくれる環境があった気がしますね。
日本のクラブシーンは、90年代から2000年代にかけてどう変化したと思いますか?
2000年代はレイヴカルチャーが盛んになった印象がありますね。90年代はクラブでDJすることが多かったんですけど、2000年代に入ってからはMETAMORPHOSEとか、FUJI ROCKもそうだし、Taicoclubとか、ova、flower of lifeなどそういったイベントの初期に誘われて出演することが多かったのをきっかけに大小さまざまな野外パーティーに誘われる事が増えた印象です。野外でDJするとなると、野外でかけたら気持ちいいものを選ぶので、選曲も環境に応じて変わっていきました。

Love Thing
2009
2000年代半ばぐらいは山形に住んでいたんですけど、そのあと東京に帰ってきたら、東京があんまり変わってなくて、新鮮味がないなって感じてたんです。そのときSagaraxxはStylus Recordという所で働いてたんですけど、当時流行っていた音楽とか、メディアで紹介されている音楽じゃないものばっかりを薦めてくれて、それが自分の中ですごくしっくりきたんです。救われたというか。で、僕もこういう音楽一杯持ってるから、それをシェアできる場所を作ろうって言って始めたのがCoffee & Cigarettesというパーティーなんです。『コーヒー&シガレッツ』という映画があるんですけど、単純にコーヒーを飲んで、煙草を吸いながら会話をしているだけの映画なんです。そういう感じで、音楽は必要なんだけど、それよりも人間のほうが重要だという環境というか、自分はもうこれだけ音楽を聴いて来たから、音楽は何でもよくて、それをしっかりシェアできる環境が大事だと思って。で、今度はそういう環境でかかって、良いなって思ったものを使ってレコードを作りませんかって、パーティーをやってたRoots Nというお店の、閉店を期したメモリアルEPの制作をMudoという人間に言われて。「じゃあ俺、サンプラー使えるから、Sagaraxx、お前何かネタを選んでくれたら、トラック作るよ」って言ったんです。こうして出来た作品『Love Thing』は、別段、音楽的に凄いってわけじゃないんですけど、その救われた想いとか、シェアしにきてくれた人達が好きな音を、こうして残せたということが、自分的には気に入ってるところですね。今でも友人のバンドにもカバーされたりしますよ。

Coffee & Cigarettes Bandのライブはどういった形で行っていますか?
Bandという名前ですけど、DJユニットなので、最初はふたりで音を出すっていうだけだったんです。例えばビートを出して、それに何かのっかるものをかけるみたいな。でも『Love Thing』を作ったあと、サンプル部分のピアノをCro-magnonのタクちゃん(金子巧)が弾いてくれたり、櫻井響がHuman Beatboxでスルドの音やってくれたり、SoftやTogetherというバンドがカバーしてくれたり、と作品を作る事によってミュージシャンがどんどん協力してくれるようになって。僕らもできることをやるって感じですね。シェイカーを振ったり、クイーカやったりとか(笑)。時には歌ったり、そんなライブ録音をdisques cordeというレーベルがCDで出してくれたりと広がり方が面白いです。
5月にはCoffee & Cigarettes Bandのミックス・シリーズ、『Electric Roots FM』のVol. 10をリリースしており、今回はPal Joeyにフォーカスしていますね。
SagaraxxがPal Joeyが今好きだっていうから、うちにいっぱいあるから聴きに来なよって言って。じゃあ、それをラジオで特集しようってなったんです。Pal Joeyってジャジーなハウスのイメージがあるんですけど、実はヒップホップのトラックも作っていたんで、そっちを特集しようってなって、dublab.jpの番組でやったんです。それを友達にも聴かせたいと思って、さらに編集して作ったっていうだけなんですよね。
僕は自分のDJを現場でレコーダーに録って、人にあげたりっていうのをよくやっているんです。DJって、現場の空気とか、波動とかを含めて伝わるものだと思うんです。その時のやってる姿とか。LINEよりAIR録りみたいな。そういうのを含めてのDJだと思うので、自分からいわゆるミックスCDを積極的に作って売ろうっていう感覚はそんなにないんです。今までオフィシャルで出したのも、ほぼ現場に来ている人にお願いされて作るっていう感じです。このElectric Rootsのシリーズは、ふたりでB2Bをやったのを録って人にあげていたのが始まりで、欲しがる人がちょっといたから、じゃあちょっと作って渡そうかってなって。だからパッケージも手作りなんです。
良い意味で、肩の力を抜いたというか、ラフなアプローチなんですね。
元々そういうものだったから伝わり易かったと思いますね。大勢の人には伝わりにくいかもしれないけど、元々このぐらいの規模感でやっていたから、このぐらいがしっくりくるんですよね。
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