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The Warehouse:ハウスミュージックが生まれた場所
The Warehouse:ハウスミュージックが生まれた場所

The Warehouseがオープンして35周年を迎えた今年、RAのJacob Arnoldがシカゴの誇る伝説のクラブの起源と最盛期を振り返る。

70年代半ば、シカゴは依然としてアメリカ第2の都市ではあったが、いくつかのインディー系ソウルレーベルがその数年前に倒産していたためレコード産業は無いに等しい状態であり、クラブシーンもかなり激しいレベルでの人種差別が行われていた。この状態に立ち向かったのが、ストレートやゲイの若者を人種の垣根を越えて集めるパーティーのプロモーターで、The WarehouseのオーナーとなるRobert Williamsだ。The WarehouseはJamie Principle、Jesse Saunders、J.M.Silk、Farley “Jackmaster” Funk、Chip Eなどのシカゴ産ダンスミュージックの始祖たちが登場する以前にクローズしたクラブだが、ハウスミュージックの土台を築き、アフターパーティーとエディットトラックをシカゴで一般的な存在にし、Frankie Knucklesのキャリアを築いた存在だ。

Williamsはニューヨークのクイーンズにあるジャマイカ地区で育ったが、その後コロンビア大学で法律を学ぶためにハーレムへ移り住んだ。70年代初頭にはThe Sanctuary、Better Days、The GalleryなどManhattanのクラブで踊り始めたが、彼にとって大きな存在となったのがDavid Mancusoのパーティーだった。「あの激しさが好きだったんだ。彼は自分のロフトでプライベートパーティーを開いていてね…。メンバー限定だった。みんなドラッグをやっていたよ。大半はLSDだったけど、とにかくワイルドだった。激しいパーティーだった。音楽は最高だった」とWilliamsは振り返っている。

また、当時BronxにあるSpofford Juvenile Centerで少年少女の補導担当官をしていたWilliamsは、若き日のLarry LevanやFrankie Knucklesが学校をさぼってはそこに連れてこられていた姿を見かけていたが、後日The Domeのようなイースト・ヴィレッジのクラブで再び彼らに出会っており、その時のことを「彼らは私よりもかなり上手いダンサーだった」と笑いながら振り返っている。






その後Williamsは1972年頃、競争の厳しいニューヨークから逃げるようにしてシカゴへ移ったが、シカゴのクラブシーンは全く面白くないということにすぐに気が付いた。そこでWilliamsは、Phi Beta Sigmaで数回のアパートメントパーティーを仲間内で開催した後、6人の友人とともにMancusoのロフトパーティーにインスパイアされた形でUS Studioを立ち上げることにする。そして1973年、116 South Clinton Avenueの商業地にシカゴ初のアフターパーティー用ジュースバーがオープンしたのだ。

当時、殆どのシカゴのバーは午前3時にクローズとなっていたが、US Studioはアルコールを販売しないという理由からオールナイトの営業が可能だった。Williamsは、「エントランスで2ドル払ってもらった。来たお客さんの数は500人。人が多すぎて警察が止めようとやってきたが、中に入るのに苦労していたよ」と当時を振り返っている。しかし、わずか数週間後、パーティーが開催されていない日に建物が火事で焼失してしまう。Williamsは「多少機材を失ったけど、そこから復活した」と語る。

US Studioはその後、消防署の向かいに位置する1400 South Michigan Avenueに新たなスペースを見つけるが、当然の結果として数カ月後に調査が入って建物自体がクローズとされてしまった。次に工業系専門の不動産仲介業者の紹介で、555 West Adams Streetの建物の7階にある930㎡の広さのロフトスペースを借りることになった。DJ Craig Cannonは、「エレベーターに乗ってそこへ向かうんだ。エレベーターは狭かったけど、パーティーが行われているフロアに近づくにつれて音楽が大きくなっていって、期待が高まるんだ。そしてドアが開いたら、みんなマジでフロアへと駈け出して行ったよ」と当時を思い出している。

US Studioではシカゴ出身のBennie WinfieldとMichael MatthewsがレジデントDJとして活動していたが、この頃US Studioの代表に選出されていたWilliamsは定期的にニューヨークまで車で向かい、MancusoとLevanから音楽をもらうようにしていた。First Choice、B.T. Express、LaBelleのようなエクスクルーシヴなソウル、ディスコの12インチをシカゴへ持って帰っていたのだ。

West Adams Streetでの2年間が過ぎた頃、グループ内でメンバーシップの価格について意見が衝突したことがきっかけとなって多くの仲間がWilliamsの所を去った。この分裂により、彼の下を去った仲間はThe Boweryをオープンさせ、Williamsは206 South Jefferson Streetに(のちの)The Warehouseをオープンすることとなった。WilliamsはWest Adam Streetは「やや自分たちにとってはサイズが大きすぎた」と分裂の原因を分析しているが、その裏窓から確認できる位置にあったThe Warehouseはその点で文句なしのサイズだった。1976年6月に契約が完了、その数カ月後にパーティーが開催されるようになったが、当初は月に2回のみオープンしていた。



US Studio - Warehouse Chicago
The Warehouse, 206 South Jefferson Street



その頃、ディスコミュージックの人気は急上昇していた。DJ Michael Ezebukwuは、「当時のシカゴはクラブだらけだった。Den One、Ritz、Le Pub、Broadway Limitedなんかを筆頭に山ほどあったよ」と当時を振り返る。Ron Hardyが黒人をDen Oneに集める日もあったが、大半は白人のクラブで、Artie FeldmanとPeter Lewickiがプレイしていた。

またシカゴには1973年にオープンしたシカゴ最大のゲイディスコ、Dugan’s Bistroもあった。ここでは2年連続でBillboardの都市別ベストDJに選ばれていたLou DiVitoがプレイしていたが、クラブ自体はアフリカ系アメリカ人を徹底的に排除することで知られていた。Craig Cannonは、「普通の身分証明書だけじゃなく、パスポートの提示も求めてきた」と当時を説明している。ちなみにこの態度が原因となり、「黒人ゲイ委員会」と自称する団体によってピケやチラシの配布が行われた。

そしてこの頃になると、Williamsの他にもLonnie FultonのSocial SoundsやMichael FieldsのCastle in the Skyなど、黒人がオーナーのアフターパーティー用ロフトが生まれており、The Warehouseは急成長を続けるシカゴのクラブシーンで生き残るために、新しいDJを雇う必要が生まれていた。WillliamsはまずLarry Levanに頼んだが、ニューヨークを離れたくないと断られた。そこで次にニューヨークのContinental BathsでLarry Levanの後継者を務めていたFrankie Knucklesに接触した。KnucklesはWilliamsの誘いに応じ、1977年3月の「グランドオープニング」パーティーでプレイすることになった。

WilliamsはニューヨークからRichard Long & Associatesもサウンドシステムとライティングのために呼び寄せたが、Knucklesをフィーチャーした初期のパーティーは失敗に終わった。Williamsは「音楽もサウンドも素晴らしかった。でも、Frankieに対して色々なことが言われていたんだ。『ニューヨークの音楽なんて聴きたくない』って感じでね」と説明する。Knucklesは一時的にニューヨークへ戻り、特別なパーティーの時だけシカゴを訪れる形となった。

Knucklesがシカゴで固定ファンを掴むのは、The Boweryのパーティーで数回プレイしてからだった。Williamsは、「その時からThe Warehouseにもお客が来るようになった。それでFrankieは気に入ってくれて、私のためにシカゴへ移り住むことを決めてくれた」と振り返っている。Knuckles本人は移り住んだのは1977年7月のことだとしており、これはWilliamsがThe Warehouseを立ち上げてから1年後のことだった。

The Warehouseは正式には「US Studio」という名前を引き継いでいたのだが、建物に何の看板も出されていなかったことから、ダンサーたちが早くから「The Warehouse(倉庫)」と呼び出していた。そしてWilliamsはそのままその呼び名を使用することにしたのがその名称の由来だ。US Studio時代と同様、19歳以上のメンバー限定のジュースバーという形態での営業だったが、Knucklesは通常朝の8時までプレイしていた。

Craig CannonはThe Warehouseについて、「あそこは3段階に分かれていた。階段を上って料金を払う、そして階段を下りてパーティーへ向かう。そしてそこには地下があった」と説明している。そしてエアコンがないThe Warehouseは夏にはファンを回し、窓を開けるだけで対応するしかなかったが、特に梁がむき出しの天井部分が紙でデコレーションされていた時は、入ってくる風が素晴らしい効果を生んでいたとしている。「天井が紙でデコレーションされている時にミラーボールを回して、ファンを回すと、全てが動いているように見えたんだ」

またフルーツパンチにアシッドが入っていたかという質問に対してCraig Cannonは、「当然だよ。全部にアルコールが入っていたしね。ひたすらクレイジーだった」と回答している。またWilliamsも、「当時は数日続くパーティーもあった。24時間ノンストップみたいなパーティーさ。お客さんは1回帰って服を着替えてまた戻ってきていたよ」と振り返っている。







最初の数年間、The Warehouseはシカゴで最もワイルドなディスコの1つとして知られていた程度だったが、1979年頃に独自のシーンを形成していくことになる。当時黒人の中流階級「プレッピー(Preppie)」カルチャーが、カトリック系高校Mendelを含むサウスサイドの私立学校を中心に形成されていた。Herb Kentのラジオ番組Punk OutでDevoやThe B-52’sなどを聴いていた10代の少年少女がパーティーのプロモーションを行うグループを作り、場所を貸し出したり、フライヤーを配ったりという活動を行っていた。その中の1つがその後プロデューサーとして活躍するVince LawrenceのInfinity Space Eclipseで、IZODの服を着るというドレスコードを設けたパーティーを開催し始めたのだ。

そしてKnucklesは土曜日のThe Warehouseの他、Carol’s Speakeasy(Den Oneがかつて所在していた建物)をきっかけにノースサイドのクラブでもプレイし始めた。1980年10月には金髪のカーリーヘアが目印の若いクラバー、Dave “Medusa” Sheltonが自分のジュースバーを161 Westにオープンさせたため、Knucklesはそこで毎週金曜日にプレイすることとなった。シカゴのダンサーたちは最初のハウスレコードが登場する2年以上も前からジャッキンなダンスを至る所で繰り広げていたのだ。これは1980年10月のGay Lifeのポスターからも知ることができる。

また、エレクトロニックミュージックが台頭しようというこの頃、Knucklesはニューウェーブ系のレコードをソウルやディスコに織り交ぜるようになっていった。Knucklesの1981年4月9日付のトップ10(Gay ChicagoのBrett Wilcots作成)には、People’s Choice、Billy Ocean、Grace Jonesなどの分かりやすいトラックの他に、Brian Eno & David Byrneの“Jezebel Spirit”や、Yoko Onoの“Walking on Thin Ice”など、珍しいレコードも選ばれている。



"一番の思い出は、多種多様な客だよ。
人種、民族、性別を超えた客層だった。
最高だったよ。"




シカゴの好奇心旺盛な「前衛的」音楽ファンはWax Trax!でレコードを買っていたが、Knucklesや他のDJはImportes Etc.でレコードを買っていた。ここはPaul Weisbergが父親の経営していた中古車ディーラーの一角からスタートさせたレコード屋で、Knucklesとは深い関係を築いていった。Importes Etc.には「The Warehouseでプレイ」などと書かれたポップがレコードに張られ、これが最終的に「house」と省略されるようになっていったのだ。DJでありGay ChicagoのコラムニストだったTom Parksは、1987年の「お悔やみ」記事の中で、Importes Etc.のDick Guentherを、「house」という言葉を販促に結びつけた人物として記している。

またKnucklesは輸入盤の他にも数年前にリリースされたディスコのエディットをプレイし始めた。Knucklesはこの点について、「私の親友Erasmo Riveraがサウンドエンジニアの学校に通っていたんだが、その授業の1つにエディットがあった。だから私は彼にレコードを渡して、エディットするように頼んだんだ」とメールで回答している。

Frankie Knuckles
Williamsはそれらのエディットシリーズが客を熱狂させたとし、「お客は、『このアルバムを持っているけれど、こんな形で聴いたことはないぞ! どういうことだ?』というような感じだった。例えばKnucklesのHarold Melvin & The Blue Notesの“Baby, You Got My Nose Open”のエディットは、いきなりブレイクから始まって”All you men, all you men”の部分を繰り返していた。あとはThe Dellsの“Get on Down”もあった。歓声が入る2小節をループさせてから曲に入っていくんだ」と解説している。

この頃、Knucklesは人気DJとなっていた。1981年と1982年の2年間、KnucklesはSauer’s、Pyramid、Annex 2、The Smart Bar、Metroのパーティーでプレイしていた。そしてKnucklesがファンを増やすことで、The Warehouseは様々な客層を獲得するという恩恵を受けていくようになった。Craig Cannonは、「一番の思い出は、多種多様な客だよ。人種、民族、性別を超えた客層だった。最高だったよ。私にとって未知の世界だったストレートの男性たちと知り合うことができたからね」とし、Knucklesは、「当時はゲイのふりをしてゲイクラブに行くのが流行っていたんだ。実際はゲイじゃないんだ。その事実はその場でしかわからないんだよ!」とCannonの発言を裏付けている。

The Warehouseの最後の1年は最高にワイルドだったと誰もが口を揃えて話している。その頃のThe Warehouseは10代の客で溢れ返っていたが、その大半は19歳に満たない子供たちだった。Williamsは親が子供を探しにThe Warehouseに来ていたのを憶えていると語り、Knucklesは彼らによって古いメンバーは追い出されてしまったとしている。The Warehouseは人で溢れ返り、クラブの中では強盗も起こるようになっていた。コントロール不可能な状態になりつつあると感じ取っていたKnucklesは当時を、「The Warehouseはもう安全な場所ではなくなっていた」と振り返っている。

そして1982年11月、Knucklesは自分のクラブThe Power Plantをオープンさせるために、The Warehouseを去った。「The Warehouseではもうこれ以上先には進めないと感じていたんだ」とKnucklesは説明している。The Warehouseはこうしてなくなり、その後The Playground、First Impressions、SheltonのMedusa’sなど他のアフターパーティー専用クラブがその地位を目指して次々と立ち上がった。Williams自身もMusic Boxをクローズから数か月後にオープンさせており、そこからRon Hardyを輩出している。また、これらの新しいクラブ(と安価なシンセとドラムマシンの登場)は、ローカルシーンのプロデューサーの誕生を促した。そして1984年に入ると、シカゴの10代の若者によるエレクトロニックダンスミュージックがレコード店に並び、ラジオでかかるようになった。

それから3年もかからないうちに、シカゴのハウスシーンはUKのチャートに食い込むようなトラックを生みだすようになったが、その成功によって自らの首を絞めてしまうことになる。数多くのトッププロデューサーたちはメジャーレーベルと契約、その後ヒップホップに鞍替えをしてしまう。同時に、Medusaが手掛けていたハウスとインダストリアルを組み合わせたパーティーは、地元住民に少年少女の非行を助長させるとして非難されるようになっていった。そして1987年1月、ジュースバーもアルコールを販売する一般のバーの営業時間に従うように条例が認められ、4月に法律が施行された。これを受けてWilliamsはアンダーグラウンドに再び潜ることになったが、以降シカゴのクラブシーンが当時とは全く別のものになってしまった。



Frankie Knuckles and Robert Williams
Frankie Knuckles and Robert Williams

Words / Jacob Arnold
Translation / Tokuto Denda
Published / Tuesday, 29 May 2012


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