その後Williamsは1972年頃、競争の厳しいニューヨークから逃げるようにしてシカゴへ移ったが、シカゴのクラブシーンは全く面白くないということにすぐに気が付いた。そこでWilliamsは、Phi Beta Sigmaで数回のアパートメントパーティーを仲間内で開催した後、6人の友人とともにMancusoのロフトパーティーにインスパイアされた形でUS Studioを立ち上げることにする。そして1973年、116 South Clinton Avenueの商業地にシカゴ初のアフターパーティー用ジュースバーがオープンしたのだ。
US Studioはその後、消防署の向かいに位置する1400 South Michigan Avenueに新たなスペースを見つけるが、当然の結果として数カ月後に調査が入って建物自体がクローズとされてしまった。次に工業系専門の不動産仲介業者の紹介で、555 West Adams Streetの建物の7階にある930㎡の広さのロフトスペースを借りることになった。DJ Craig Cannonは、「エレベーターに乗ってそこへ向かうんだ。エレベーターは狭かったけど、パーティーが行われているフロアに近づくにつれて音楽が大きくなっていって、期待が高まるんだ。そしてドアが開いたら、みんなマジでフロアへと駈け出して行ったよ」と当時を思い出している。
US Studioではシカゴ出身のBennie WinfieldとMichael MatthewsがレジデントDJとして活動していたが、この頃US Studioの代表に選出されていたWilliamsは定期的にニューヨークまで車で向かい、MancusoとLevanから音楽をもらうようにしていた。First Choice、B.T. Express、LaBelleのようなエクスクルーシヴなソウル、ディスコの12インチをシカゴへ持って帰っていたのだ。
West Adams Streetでの2年間が過ぎた頃、グループ内でメンバーシップの価格について意見が衝突したことがきっかけとなって多くの仲間がWilliamsの所を去った。この分裂により、彼の下を去った仲間はThe Boweryをオープンさせ、Williamsは206 South Jefferson Streetに(のちの)The Warehouseをオープンすることとなった。WilliamsはWest Adam Streetは「やや自分たちにとってはサイズが大きすぎた」と分裂の原因を分析しているが、その裏窓から確認できる位置にあったThe Warehouseはその点で文句なしのサイズだった。1976年6月に契約が完了、その数カ月後にパーティーが開催されるようになったが、当初は月に2回のみオープンしていた。
The Warehouse, 206 South Jefferson Street
その頃、ディスコミュージックの人気は急上昇していた。DJ Michael Ezebukwuは、「当時のシカゴはクラブだらけだった。Den One、Ritz、Le Pub、Broadway Limitedなんかを筆頭に山ほどあったよ」と当時を振り返る。Ron Hardyが黒人をDen Oneに集める日もあったが、大半は白人のクラブで、Artie FeldmanとPeter Lewickiがプレイしていた。
そしてこの頃になると、Williamsの他にもLonnie FultonのSocial SoundsやMichael FieldsのCastle in the Skyなど、黒人がオーナーのアフターパーティー用ロフトが生まれており、The Warehouseは急成長を続けるシカゴのクラブシーンで生き残るために、新しいDJを雇う必要が生まれていた。WillliamsはまずLarry Levanに頼んだが、ニューヨークを離れたくないと断られた。そこで次にニューヨークのContinental BathsでLarry Levanの後継者を務めていたFrankie Knucklesに接触した。KnucklesはWilliamsの誘いに応じ、1977年3月の「グランドオープニング」パーティーでプレイすることになった。
WilliamsはニューヨークからRichard Long & Associatesもサウンドシステムとライティングのために呼び寄せたが、Knucklesをフィーチャーした初期のパーティーは失敗に終わった。Williamsは「音楽もサウンドも素晴らしかった。でも、Frankieに対して色々なことが言われていたんだ。『ニューヨークの音楽なんて聴きたくない』って感じでね」と説明する。Knucklesは一時的にニューヨークへ戻り、特別なパーティーの時だけシカゴを訪れる形となった。
The Warehouseは正式には「US Studio」という名前を引き継いでいたのだが、建物に何の看板も出されていなかったことから、ダンサーたちが早くから「The Warehouse(倉庫)」と呼び出していた。そしてWilliamsはそのままその呼び名を使用することにしたのがその名称の由来だ。US Studio時代と同様、19歳以上のメンバー限定のジュースバーという形態での営業だったが、Knucklesは通常朝の8時までプレイしていた。
また、エレクトロニックミュージックが台頭しようというこの頃、Knucklesはニューウェーブ系のレコードをソウルやディスコに織り交ぜるようになっていった。Knucklesの1981年4月9日付のトップ10(Gay ChicagoのBrett Wilcots作成)には、People’s Choice、Billy Ocean、Grace Jonesなどの分かりやすいトラックの他に、Brian Eno & David Byrneの“Jezebel Spirit”や、Yoko Onoの“Walking on Thin Ice”など、珍しいレコードも選ばれている。
Williamsはそれらのエディットシリーズが客を熱狂させたとし、「お客は、『このアルバムを持っているけれど、こんな形で聴いたことはないぞ! どういうことだ?』というような感じだった。例えばKnucklesのHarold Melvin & The Blue Notesの“Baby, You Got My Nose Open”のエディットは、いきなりブレイクから始まって”All you men, all you men”の部分を繰り返していた。あとはThe Dellsの“Get on Down”もあった。歓声が入る2小節をループさせてから曲に入っていくんだ」と解説している。