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Breaking through: Jonwayne
Breaking through: Jonwayne

RAのLainna Faderが、Low End Theory、そしてStones Throwクルーに認められたLAのビートメーカー/ラッパーを紹介する

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Low End Theoryが発信する、サンプルを重用した荒々しいエレクトロニックミュージックシーンは、他の音楽ジャンルと同様、つまりひっそりとスタートした。Low End Theoryは2006年にLAのチャイナタウンのすぐ北に位置するBroadwayに位置する疲弊した安箱を数人のアーティストが見つけ、ここで彼らが新たなサウンドを試し始めたことに端を発する。最初は仲間が仲間に聴かせるような小さな集まりだった。

毎週水曜日に行われていたこのパーティーが数百回の開催を経て、Flying LotusやGaslamp Killerのような先鋭的なアーティストを輩出し、またRadioheadのThom YorkeやErykah BaduのようなアーティストがシークレットDJを披露するようなパーティーとして認識されるようになると想像した人は殆どいなかった。しかし、Low End Theoryがスタートして5年が経ち、私たちは今回Airlinerで開催されているこの世界的に有名なシーンに影響を受けた第2世代について話をしていく。

Jonwayne(Jon Wayne)はLAの郊外La Habra出身の童顔の白人で、Low End Theoryには飲酒許可の年齢に達するより遥か前から出演を続けているアーティストだ。現在21歳のラッパー/プロデューサー、Jonwayneは高校在籍時にラップとビートの制作をスタートさせたが、以前はフットボールの選手で、詩を書く演劇オタクだった。フットボール? と思うかも知れないが、2人の兄が高校のトップチームでプレイしていた関係で小さな頃からコーチに知られていたため、この事実は納得がいくものだ。しかし、2年生の終わりにはスポーツ選手に対して魅力を感じなくなり、スポーツから遠ざかっていった。

結果として怠惰な息子を抱えてしまったJonの両親は彼に対し、仕事を見つけるか、何かしら生産的な趣味を見つけるかという2つのオプションを与えるが、本人にとってこの選択は簡単だった。彼は学校の演劇に関わるようになり、またYoung Artists Workshopへ参加して、スポークン・ワードへの情熱を見出すことになるが、当時彼が好きだった少女が詩を好んでいたため、彼女に好印象を与えようとしたのがきっかけだった。Jonは当時を振り返り、「とにかく俺にはありとあらゆるストレスが、猛り狂うホルモンと自己表現欲と一緒に存在していたんだ。最悪の人間だったね。だから詩を書くのは当時の俺にとって大きな助けになった。ただ、最初からしっかりやろうって思ってたわけじゃないんだ。適当に始めて、それが結果的にその後数年のめり込むものになったって感じさ」と語っている。







Jonが17歳になると詩の創作はラップへと変わった。Young Artists WorkshopでWest Covinaのクルーが彼に大きな影響を与えたのだ。彼らは毎日機材を持ち込んでビートを作っており、Jonはそこで彼らがラップをするのを聴く機会を持つようになった。彼らからラップを勧められた経緯については、「俺はただそこに居ただけだったんだ。形式上必要な白人という存在だったから、彼らからやるように勧められたのさ。(人種のバランス的な意味で)そういう存在があの場所には必要だったからね」と振り返り、「俺は自分のスタイルを築こうとしたんだけど、レコーディングするという点に関しては気分が乗らなかった。というのは彼らには独自の美学があったし、その場のみんなに対して独自のバイブを押しつけてきたからさ」と続ける。そしてJonは安いマイクを買うだけの貯金が出来ると彼らの元を去り、自分だけでレコーディングを始めた。「どこか別の方向へ向かいたいと感じていたんだ」

その別の方向がLow End Theoryだった。ここで彼はdublabやLow End Theoryに深く関わっているDJ Kutmahなど、考え方を共有できるようなアーティストたちのコミュニティを見つけることになる。Jonは初めて彼らと出会った夜のことを鮮明に覚えている。その夜は2009年初頭のパーティーで、ゲストはDibia$e、devonwho、Mono/Poly。2012年現在でも他と一線を画した活躍をしているラインナップだが、当時はまだフロアで余裕を持って踊ることができた。そこでJonの師匠であり、友人でもあるDibia$eが、自分の作ったビートのCDを持ち込んで、Kutmahを含む、そこにいた仲間に渡すようにJonに伝えたのだ。

「Dibia$eは、Kutmahに何か渡さなきゃダメだって言ってきた。だから当時はKutmahが誰なのかも知らなかったけど、とにかく渡したんだ。すると彼の方からも何か渡したいって言ってきて、俺に『Sacred Geometry』をくれたんだ。それだけさ。俺がぐっと来た人物は彼が最初だった」

Kutmahは当時Poo-Bahレコードで働いており、そこでWayneのCDをプレイし始めた。そしてLow End Theoryのキュレーターであり、同じくPoo-Bah Recordsで働いていたDJ NobodyがJonに興味を持ち、もっとビートを持ってこいと頼んだ。そして最新のビートを渡すと、DJ Nobodyは自分のセットにそれらを組み込むようになり、その結果Jonは初めてLow End Theoryからブッキングされ、最年少アーティストの1人としてステージに立つことになった。




"あの夜が来るのをずっと思い描いていたんだ。
そして雨が降り出した。"




Jonは初のブッキングについて、「Elvin(DJ Nobody)は俺の音楽を前から知ってたけど、俺がDibia$eに合わせてラップした時に初めて、彼が『いいぞ、出てもらおう』って言ったんだ」と振り返る。そしてDJ Nobodyは自分の家にJonを招き、そこでライブ用のセットを組み上げることになった。JonはCD5枚分以上の素材を持ち込み、丸1日をかけてそれらを聴き直し、30個のビートをRoland SP-404に組み込んだという。「Elvinが助けてくれたのさ。彼はどれが本番で機能するか分かってたから、俺のセット用のビートを選んでくれたんだ。まぁ、まずはファミリーに入らなければなって、そこからやらせてもらえるってことさ」

Low End Theoryのデビュー戦となった夜は、雨だった。そして彼がライブ前に緊張したのはこれが最初で最後となった。「俺はあの夜が来るのをずっと思い描いていたんだ。満員の客に対して、30分間ドープな俺の音楽を聞かせようってね。でも雨が降り出して、『クソ、チャンスをもらったのに俺の期待するような夜にはならないぞ』って感じだった。俺は失敗したくなかった。それで自分の出番の2時間前にElvinに『俺はできないよ』って言ったんだ。最悪になると思ったからさ」

雨の影響で客足が鈍り、いつもは汗だくのビートマニアでパンパンに膨れ上がるフロアはまばらだった。しかしJonはそれを受けて立ち、気持ちを切り替え、ヴェニューのテラスを流れ落ちる水のように観客を呑み込んだ。「あの晩で俺の人生が変わったんだ。Elvinたちにとっては次世代を初めて目の当りにした夜だったんだと思う。下の世代が自分たちのやってきたことを理解して、彼らの美学を吸収して、その上に何かを作り上げるという姿を初めて見たのさ」



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Jonの2回目のブレイクを迎えるのはそのすぐあとのことだ。2010年5月のある朝、Kutmahは警察が自分の家のドアをノックする音で目を覚ますが、彼は即座にどういうことなのかを理解した。英国Brightonで生まれ育ち、12歳でLAに来たKutmahは合法的な滞在許可を持っておらず、誰かがそれに気付くのは時間の問題だったのだ。そして数分後彼は手錠をかけられ、10年前にサインしていた自主出国申請の履行を怠ったとして、国土安全保障省によって身柄を拘束されることになった。

KutmahがNew Mexicoの刑務所で国外退去を待つ間、怒りに駆られた地元の仲間が多額の弁護士費用を工面するため、そしてこの件を世間に知ってもらうために集まった。そして国外退去が迫る中、2か月程が経とうとする頃、KutmahはJonにスクリーンプリントの集団Hit+Runによって企画された慈善イベントに出演するように伝える。JonはHit+Runのイベントでライブをしたことはなく、当時Hit+RunもJonが誰なのかを理解していなかったが、Stones ThrowのレジデントであるDam-FunkやMayer Howthorne、そしてPeanut Butter Wolfが出演するその夜のラインアップに彼が加わることになったのだ。

「KUTMAHが俺に出演しろって言ってきたのはかなり大きな出来事だった。俺にとって俺が尊敬していて、一緒に何かをしたいと思っている人たちと一緒のステージに立つチャンスをもらえたのは最高だった。多分KUTMAHはこれが俺にとって凄い状況になるんじゃないかって分かってたんだと思う」



"Stones Throwへ出向いて、彼らに会うのを
何年も夢見ていた。"




そして当日、Dam-Funkがセットをプレイしている時に、JonはついにStones Throw Recordsのボス、Wolfに会うことになった。Myspace時代からStones ThrowをチェックしていたJonは、「音楽制作を始めた時、Stones Throwのファンキーでソウルフルな作品群は俺にとって凄い良いお手本だった。俺の音楽は最初模倣にすぎなかったけど、自分の声を手に入れて、模倣から離れていくことが出来た。その過程の中でStones Throwが俺に興味を持ってくれたんだ」と語っているが、結果的に本人はこの1月、弱冠21歳でStones Throwと3枚のアルバム契約を交わした。

Stones Throwファミリーに加わる前、Jonは自分のレコーディングシステムを組み上げていた。それはシンセサイザー、SP-404、そしてターンテーブルを自宅のバスルームに持ち込んだものだった。「シンセは途中まで引き出した引き出しの上に乗せて、SP-404はシンクの横、ターンテーブルはその逆側に置いていた」とJonは説明する。そして他の機材は、積み上げた本の上に置かれる中、Jonはバスルームに座って、ゴミ箱の横に8トラックのレコーダーを置いてトラックとビートの制作をし、リリックに行き詰った時はベッドルームへ戻るという作業を繰り返した。後にAlpha Pupからリリースされることになる、著作権フリーのビートを組み合わせにWarp RecordsのようなIDM風な質感とビデオゲームに影響を受けたメロディーが盛り込まれたデビュー作「Bowser」は、こうしてバスルームで制作されたものだ。また昨年末にリリースされた、より深化し、ダークな音像となっている2枚目の作品「The Death of Andrew」や、自主発売した複数のミックステープもこの空間から生まれている。

しかし、「Bowser」の成功によってJonはバスルームを脱出し、今はHighland ParkにあるStones Throwのオフィス内へ移っており、Peanut Butter Wolfと、親友であり共同作業者であるStones ThrowのレーベルメイトJontiと一緒に組み上げたスタジオで制作を行っている。ついにJonは自分がいくべき場所に辿り着いたのだ。世界で最も革新的なヒップホップレーベルのロースターに、定義不可能な辣腕プロデューサー、Madlibと名前を連ねることになったというわけだ。

「全ての始まりの場所であるここに来て、みんなに会うことを長年夢見ていた。ただの“お客さん”じゃない形、戦相手として来たかった。誰かに興味を持ってもらいたいなら、冗談抜きにそいつの襟首を掴んで『いいか、この野郎。良く聞けよ』ってやらなきゃいけない。それ以外の方法はないのさ」

Words / Lainna Fader
Translation / Tokuto Denda
Published / Tuesday, 17 April 2012

Photo credits /
Psychedelic - Daniel P. Lopez
Live - Eric Twopercento Kim
Brick wall - Shane Sakanoi


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