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Aril Brikha: Groove La Vengeance
Aril Brikha: Groove La Vengeance

デトロイトで人気のあるスウェーデン人プロデューサーが、新しいレーベルと、独創的なデビューアルバムの2枚組リイシューと共に戻ってきた。

もしかしたら、話は全然違ったものになっていたかも知れないのだ。「僕ら家族は、アメリカに引っ越すことになってたんだよ」と、Aril Brikhaは回想する。「家と家具を売り払った後、友達や、イランに残る親戚たちと一緒に最後のディナーをしたよ。だけど、その同じ週にイラン革命が起こったんだ。カーター大統領がすべてのビザをキャンセルしちゃったんで、両親は、いちかばちか賭けてみて入国を拒否される代わりに、スウェーデンに引っ越すことにしたのさ。」Brikhaは、初期のTransmatからリリースした最も著名なヨーロッパ人プロデューサーのひとりとなる代わりに、単なるひとりのアメリカ人になっていたかも知れないのだ。

音楽というものそのものの話になるが、初めて聴いた時や場所に関わらず、ある特定のサウンドが異様に好きだという人もいるだろう。もしBrikhaがアメリカにいたら、Depeche Modeの音楽と出会うのは、もうちょっと遅くなっていたかも知れない。もしかしたら、だいたい同じ頃に出会っていたかも知れないが。いずれにせよ、Depeche Modeは本当の意味でBrikhaの耳に残った最初のグループであり、ごく若い頃からキーボードを持っていた彼は(初めてのキーボードを持ったのは7歳の時だった)、どうやって彼なりに演奏するかを探求しはじめた。「僕が"Strangelove"だとか "Behind the Wheel"のイントロを解明しようとしているのを聴かされて、うちの両親は気が狂いそうになってたと思うよ(笑)。」と彼は語る。

Brikhaがメロディーにとても興味を持ったことは、有益だった。彼にとってはいつも、サビのエモーショナルな印象がすべてだった。「初めてのレコードをリリースするまで、オーディエンスが自分の音楽で踊ってくれるなんて思いもしなかったよ。」と彼は言う。「僕が作ってた曲は、初期のころ僕が傾倒していたハードテクノとは全然ちがったものだったんだ。僕が思うに、ほとんどの人は二つのうちどちらかのバックグラウンドを持ってるんじゃないかな。ひとつは、Hip HopのシーンからDJになって、サンプラーを使ってビートを作っている人たち。で、僕はそのタイプじゃなくて、音楽が持つメロディーの側面が好きなんだ。」

過激な音を好むスウェーデンのシーンで、Brikhaはうまくなじめなかった。彼の音楽はSvekのようなハウスレーベルにはハード過ぎたし、Drumcodeの一派になるには柔らか過ぎた。Brikhaはなかなか契約が決まらないことにイラつき、お手上げ状態になった末、まず契約は決まらないだろうと思われたが、ともかくふたつのレーベルにデモを送ってみた。それが、Transmatと430 Westである。「そのころファックスを持ってなかったから、近所の人が、430 Westから返事が届いた3日後に僕のところに持って来てくれたんだよ。Transmatからも、ほとんど同じ日に電話が来たんだ。」

その後のことは、周知のとおりである。そのデモに収録されていた彼のヒット曲 "Groove La Chord" は、テクノの最も有名なアンセムのひとつとして後々まで記憶されることとなった。この曲は、印象的なメロディーに対するBrikhaの好みが伺えるパーフェクトな一例である。とは言え、すぐにいい結果を出したという意味では、彼のディスコグラフィーの中では異例の曲だ。「このチャンスを無駄にしている暇はなかった。僕は友達が来るのを待ちながらも、このトラックに取りかかってたよ。実は、デートだったんだけどね。彼女は、ストリングスなんかの音が使ってある僕の別な曲を前に聴いたことがあったんだけど、『あら。これはちょっと違った感じなのね』って思ってるみたいだったよ。彼女に15分間待っててもらって、それでぼくはテープにライブで2回録音したんだ。」とBrikhaは言った。

Brikhaはスタジオでは完璧主義者であり、決して無理強いをしない。行き詰まりを感じたら、単純に制作を止めるのだ。これはつまり、作品のクオリティが落ちることはめったにないということだが、リリースとリリースの間にしばしば時間が空くということでもある。彼のファーストアルバム『Deeparture in Time』が2000年にリリースされた後、次のリリースまでには3年を要した。それから、次の12インチが出るまでにはさらに2年がかった。そして、2007年にたくさんのレコードがリリースされた後、再びしばしの沈黙。そして、昨年の終わり頃ごろ、Brikhaは戻って来た。(と、言えるだろう。)もしDerrick MayのTransmatレーベルでリリースが決まっていなかったら、きっと1998年に設立されていたであろう彼自身の新しいレーベルは、アルバム『Deeparture in Time』 の2枚組リイシューに先駆けて、アルバムの収録曲のリミックス・パッケージをリリースした。


彼の最初のEPとレーベルの名前である "Art of Vengeance"というフレーズはBrikhaにとってとくに意味のあるものだ。「これは暴力的な意味じゃなくて、ネガティブなエネルギーをアートに昇華させるっていう意味なんだ。そのわりに、僕の音楽は決して怒りをあらわにしないっていうのは、おかしな話だけどね。作ってる途中でなにかが起こってるんだろうね。僕はおそらく、たくさんの怒りを抱えてると思うよ。うん、それは確実さ(笑)。」と彼は語る。「世の中は不公平だっていうことから、食事がまずいっていうことまで、怒りの種類はいろいろなんだけど。数年間、ぼくは力強いビートの曲を作ろうと試みてたんだけど、結局いつもストリングスを使った曲になっちゃうんだよ。」



Aril Brikha



BrikhaはDJではない。そのため、話題は彼のライブセットのことに移り変わった。機材は、多少コンパクトになったとは言え、ここ数年間さほど変わっていないと言う。「ステージ上でハードウェアを使ってる方がクールだって言われると、なんだかうんざりしちゃうんだよね。ハードウェアを使ったとしても、僕はMPCの上で走らせるし、音を弱めたり曲をトリガする装置を使うよ。機材が変わるだけで、コンセプトは一緒なのさ。誰かが機材を貸してくれるって言っても、僕は借りたことは一度もないよ。『このほうが見栄えがいいよ。もしステージで何か機材を使いたいんだったら...。』なんて言われるけどね。だけど、いつも議論は同じさ。何を持ってるかじゃないんだ。それをどう使いこなすかなんだよ。」

会話の中で、こういった実用主義論はよく出て来た。表立ったリリースとリリースの間には沈黙の期間が空いてしまうし、ビートの効いた曲も作れはしないが、Brikhaは極めて楽観的なようだ。「コードの音でみんなを踊らせるのは簡単なことじゃなかったよ。元々難しかったし、過去10年間それはずっと同じだった。みんな大抵、ドラムのキック音に惹き付けられるものだからね。」彼はいつも、こういう感じのことを口にしても、決してあきらめたような口ぶりではないのだ。ただ、事実を話しているに過ぎない。彼は、ただ純粋に、こうした音楽と密接な繋がりを持っているのだろう。

Translation / Rieko Matsui
Published / Tuesday, 25 January 2011

Photo credits /
Live at Planetary Series, Los Angeles- Christopher Soltis
Portraits - Paul Clement


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